下関の砲台が外国兵に占拠されている写真を、歴史教科書でご覧になったことがあるだろう。幕末の四国艦隊下関砲撃事件だ。この講和談判に長州藩を代表して出向いたのが、高杉晋作である。英国のユーライアラス号に乗り込んでキューパー提督と談判した。
この時、晋作は家老宍戸備前の養子「宍戸刑部」と名乗った。正使にふさわしい名門の箔をつけるためである。長州藩で一門筆頭として重きをなした宍戸氏。本日は毛利元就の時代にさかのぼって、ゆかりの地を訪ねよう。
安芸高田市甲田町上甲立(こうだちょうかみこうたち)に「五龍(ごりゅう)城跡」がある。県指定の史跡である。この奥に続く尾根筋に沿って曲輪などの遺構が残っているというが、登ってはいない。
常陸国宍戸(JR水戸線宍戸駅のあたり)にいた宍戸朝家は、建武元年(1334)、安芸守に任ぜられ甲立荘を領した。地の利を考慮し、ここ元木山に築城したものの、水源が確保できない。どうしたのか。広島県教委・甲田町教委連名の説明板(1990年)は、次のように伝えている。
用水がないので、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに井水が湧出したので大変喜び山名を五龍山と改称した。
五龍王とは青龍、赤龍、黄龍、白龍、黒龍のことで、水の神様である。この城を拠点に勢力を築いた宍戸氏は、やがて毛利氏とライバル関係になっていく。
安芸高田市甲田町下甲立の理窓院に「宍戸元源(もとよし)の墓」がある。市指定の史跡である。
元源は元就よりもかなり年上だが、二人はライバルでもあり盟友でもあった。甲田町教委の説明板を読んでみよう。
西隣の毛利氏と数度にわたって戦いを最後の雌雄を決するには至らなかった。一五三三(天文二)年毛利氏は、宍戸氏と和睦し、翌一五三四(天文三)年正月十八日、毛利元就自ら五龍城を訪れ、元就の長女五龍姫と孫の隆家との婚約を決めた。
元源の嫡男元家は、永正十五年(1518)に若くして没していた。その元家には隆家という子がおり、毛利氏との和睦により元就の長女を娶ることになった。両家が戦ったのは元就の兄興元の時代で、元就自身と元源は本当に仲が良かったらしい。元就は次のように書き残している。「毛利元就自筆書状」(隆元あて)『大日本古文書』家わけ八ノ二 毛利家文書2-544より
それ弘元末期に、宍戸方と知音可為肝要由被申置候ツる、興元わろく候て、其保なく、五竜と被取相候ツる、弘元ゆい言むなしく被仕故候哉、弓箭一円成立候ハて、剰弓箭中ニ病死候ツる、さ様之所如何と存候而、我等事元源と誠成水魚之思、縁辺申合たる事にて候ツる
そもそも私の父弘元が最期の時に「宍戸氏とはよしみを通じておくことが大切」と申し置かれたのであるが、兄興元は器量がなくて守らず、五龍城を攻めた。父の遺言は無駄になったのだ。戦いが拡大したが、その最中に兄は病死してしまった。このような状況でどうなるかと思っていたが、我らは元源と誠に水魚の交わりとなり、縁談のはこびとなったのである。
安芸高田市甲田町上甲立に「宍戸隆家夫妻の墓」がある。市指定の史跡である。
ここには天叟寺という寺があった。今は山中に墓のみ残されている。幸いなことに甲田町教委の説明板があるので、読んでみよう。
向かって右は、隆家の墓で天叟覚隆大居士、左は後妻、小河内(おがわち)の石見繁継の姉、椿窓寿久禅定尼である。
五龍姫は、一五七四(天正二)年に没した。法名は法光院殿栄室妙寿禅定尼、墓は天叟寺旧地にありと記録されているが所在はあきらかでない。
写真では手前が隆家、奥が後妻の墓である。残念なことに元就の長女「五龍姫」の墓は不明だそうだ。隆家は、元就や五龍姫が亡くなった後も毛利家に忠節を尽し、文禄元年(1592)まで長生きした。おかげで宍戸氏は、家中でも特に重用されることとなったのである。
最後に、「五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに井水が湧出した」という城名由来の湧水を訪ねよう。
安芸高田市甲田町上甲立の国道54号沿いに、名水「千貫水」がある。
清冽にして美味、心身ともに潤う湧水である。地元の方が「龍神の恵み」と大切に管理なさっている。千貫水保存継承の会による説明板を読んでみよう。
代々の領主がこの水を愛し、なかでも宍戸隆家(八代目)は「値千貫にも換え難し」と称賛したとか。これが「千貫水」の命名の由来といわれています。
何時の頃からか水脈が変わって、大道(現国道54号線)の下岸に湧き出すようになったと伝えられています。
毛利と宍戸両家の争いと和睦、五龍姫の輿入れ、関ケ原敗戦による防長移封。宍戸氏は萩へ去り、五龍城は廃城となった。つわものどもが夢のあとに今も、大金にも換えがたい名水が湧き出している。
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