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ホテルで盛大に宴会があった頃のことである。帰り道、酔っぱらった勢いで古本屋に入り、漁って買い求めたパンフレットがある。岡山県古代吉備文化財センター『八塚古墳群』(2008)。つや消しの表紙には、立派な横穴式石室、その前には池が写っている。これも一期一会。めぐり逢いを感じて現地を訪ねることとした。本日はそのレポートをお届けする。
赤磐市山口に「八塚(やつづか)古墳群」があった。その1号墳は直径約12mの円墳で、写真は石室内のようすである。
かつては八塚下池(やつづかしたいけ)のほとりにあり、奥壁の痕跡から分かるように半ば水没する状態だった。古墳の手前では県道53号御津佐伯線が急カーブしていた。これを直線に改良する工事に伴って、発掘調査が行われたのである。
しっかりした造りの横穴式石室であるが、先般紹介した鳥取上高塚古墳の石室に比べると大したことがない。八塚3号墳にはどのような意義があるのだろうか。パンフレット『八塚古墳群』には、次のように記されている。
八塚1号墳は鳥取上高塚古墳とだいたい同じ頃につくられた古墳ですが、石室の大きさはずいぶん違います。葬られた人は、このあたりの村を代表する人物だったと思われます。しかしながら、有力者が眠る鳥取上高塚古墳に近いという環境にあって、鉄滓の副葬からうかがえる製鉄や、八塚3号墳の初期の横穴式石室など、先進の技術や文化をいち早く受け入れた人物であったともいえるでしょう。
鉄滓(てっさい)が副葬されていたことから、製鉄という先進技術を取り入れた有力者だったことが分かる。他にも須恵器や土師器、鉄鏃(てつぞく)などが出土している。また釘(くぎ)と鎹(かすがい)が残っていたことから、古墳の主は木棺に葬られていたことが分かる。
1号墳の右隣に、直径約11mの円墳、3号墳があった。1号墳に比べると一回り小さい石室である。しかし副葬品は1号墳より多彩で、高さ25cmの須恵器、長さ105cmの大刀、鉄鏃、刀子、馬具、ガラス玉などである。特に注目すべきは馬具で、轡(くつわ)、鞍(くら)、鐙(あぶみ)に付属する金具が出土した。パンフレット『八塚古墳群』を読んでみよう。
副葬品の特徴から、3号墳は1号墳より少し古く、6世紀中頃につくられたことが分かります。
ところで、吉備地域では6世紀の中頃から横穴式石室が登場し、広がり始めます。つまり、八塚3号墳はその頃にいち早く、新しい埋葬方法である横穴式石室を採用した古墳であるといえます。今わかっている限りでは、赤磐周辺地域で最も古いものでしょう。
被葬者は「先進の技術や文化をいち早く受け入れた人物であった」だとか、横穴式石室は「赤磐周辺地域で最も古い」などと、水没していた小さな古墳に大きな意義があることが判明したのだ。しかしながら、道路を直線にするためには古墳の現状保存は困難だという現実もあった。そこで、二つの横穴式石室は地元の要望により、北方約600mの山中に移築復元されたのである。
写真は移築復元された石室を撮影したものだ。水没により石が変色していることも見て取れる。ただ、ここにたどり着くのに大変な困難があった。途中まで舗装された道があり、移築場所も広場のように整備されているにも関わらずである。夏場だったこともあり、草が生い茂って先が見通せない。広場は原野に還ろうとしており、しばらく見つけられなかった。
この日、家に帰って鍵を開けようとしたところ、あるはずの鍵がない。鍵開け業者に連絡したが対応不可とのことで大いにあわて、大家さんに助けていただいたことも、今となっては笑い話であると同時に、ずっと大事にしている戒めだ。おそらくあの草叢の中だろうとは思ったが、とても探しに行く気にならなかった。いろいろあって忘れえぬ古墳の一つである。
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