安徳天皇の御陵墓が鳥取県内には三つもあると以前に紹介した。詳しくは安徳天皇御陵墓(伯耆中津編)、同(因幡姫路編)、同(因幡岡益編)をご覧いただきたい。これだけでも不思議だが、さらに驚くことに長慶天皇の御陵墓まであるというのだ。探しに探して、なんとかたどり着くことができたのでレポートする。
鳥取市桜谷に「長慶天皇陵墓」がある。
正式な御陵は「嵯峨東陵」といって京都嵐山にある。こことて昭和19年に定まったものであり、実際のところ本当の葬地は不明なのである。というのも、その最期がよく分からないからだ。ならば、因幡のこの宝篋印塔が長慶天皇陵だとしても、あながち否定できないだろう。説明板を読んでみよう。
伝承 長慶天皇陵墓
第九十八代長慶天皇は、後醍醐天皇の孫であり、一三六八年から一三八三年まで在位した後、弟の後亀山天皇に譲位した。
伝承によると、長慶天皇は退位後、因幡国に遷幸(せんこう)され、面影山麓正蓮寺小字隠里(かくれさと)に住み、その後今在家小字ゴッソリ(御所裡・御都曽裡・崛岨裏)の北浦御殿に移り、そこで崩御なされた。ここ桜谷小字岡谷にある三基の宝篋印塔のうち、前方の大きなものが長慶天皇の陵墓であり、後方の小さな二基は皇子玉川宮、皇孫東の方の墓であると言われている。
長慶天皇の陵墓と言われるものは、全国に散在しているが、昭和十九年に京都市の「嵯峨東陵」が正式に御陵として指定された。
面影山遊歩道協議会
三基の宝篋印塔は長慶天皇、玉川宮、東御方の三代の墓だという。いったい因幡とどのような関係があるというのか。より詳しい説明板が入口に掲げられているので、読んでみよう。
伝説
天皇は大いに感ぜられる所があって、大覚寺を忍び出られた侭行方を晦まされた。といい、今尚崩御地が明確でなく種々の伝説が各地方にある。
古来因幡国潜行の伝説があり、因幡の守護山名氏冬は丹波国桑田郡千歳村千年山に潜行になっていた長慶法皇を因幡にお迎えしたという。お供に阿縫(おぬい)の局、左兵衛介津守国徳、その子国直、僧俊明、正覚法師(熊王丸)等を従えられ途中但馬国美方郡温泉町岸田の豪農植村、大久保両家に逗留され、それより蒲生峠を越えて因幡国に入られ、先ず巨濃郡洗井字横尾の井本家に泊られ、出発の際御衣を賜ったといい、御衣は今尚ある。ここを発って小田谷長郷に行在所を建てて暫く歳月を過して後、法美郡面影山麓の正蓮寺に遷られて、後今在家の御所裡の北浦殿に変られた。
法皇は元中九年(一三九二)遂にこの山中で崩御されたので、この山の黄金山に葬り立岩大権現と尊称し、陵墓は桜谷字岡谷通称御王畑に造られた。
同年八月大納言藤原長親卿の息女長谷姫は因幡に来て、大杭の堤谷に明徳山長慶院を建立して、京都嵯峨往生院僧正正覚法師を開山として法皇の御冥福を祈った。
其の後四十五年を圣て永享九年(一四三七)十一月六日、法皇の御子玉川宮の御女東の御方と申す姫君が、将軍足利義教の祗候に出ていられたが、将軍との間に不都合の事があらわれ、その怒にふれて流謫されることになり、小弁阿崎の局と共に因幡国に遷られ長慶院の傍らに観音堂を建てて落飾して住われた。
これより又七年を圣て嘉吉三年(一四四三)五月九日、姫君の御父玉川宮は嵯峨大覚寺を出て因幡に下られ、姫君と一緒に住われたが当時已に七十余歳の御老体であったので、後遂に病のため薨御になった。
御王畑にある大きな法篋印塔が法皇の陵墓で、小さい二基が玉川宮と姫君の墓であると伝えられている。お供の国徳は法皇の崩御を悲しんで病死したので、立岩大権現の傍らに葬った。阿縫の局は大杭山の小丘に葬りこれをお縫山という。国直は剃髪して巨濃郡小田谷の延興寺に入って僧都法印となりその墓がある。正覚法師は山崎に葬り、僧俊明は高野山に入ると伝えられている。
長慶天皇は八代国治博士の研究により、大正十五年十月二十一日詔を以て第九十八代天皇として皇統に列せられた。
長慶法皇の因幡潜行を調査顕彰したのは、岡山から来た土肥彦兵衛平真利で、その墓は黄金崎にあり、子孫は土井八城家といわれている。
昭和五十七年四月記
面影郷土史研究会
山名氏冬は確かに因幡守護だが、正平十八年(1363)に北朝に帰順し、同二十五年(1370)に亡くなっているから、素直に考えれば在位中の長慶天皇をかくまうことはないだろう。
将軍との間に不都合の事があったという東御方という姫君については、伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』永享九年⼗⼀⽉六⽇条に、次のように記されている。
六⽇、晴、聞。室町殿祗候⼥中、東御⽅〈⽟川殿御⼥〉⼩弁不調事露顕。両⼈可流罪云々。⼩弁者被糺問⽩状申。相国寺僧⼜⾏道等密通云々。
なんと密通が露見したのだという。これは不都合に他ならない。東御方と小弁は流罪に処せられたが、その場所までは記録されていない。
そして玉川宮については、万里小路時房の日記『建内記』嘉吉三年五月九日条に、後南朝の小倉宮、護聖院宮の消息に続いて次のように記されている。
玉川宮遷因州、其外皆釈門、禅宗也。
確かに玉川宮は因幡に下っているようだ。この事実がさらに脚色され、娘の東御方と父の長慶天皇も呼び寄せたのかもしれない。伝説には尾鰭がつくものである。
もう一つ興味深いのは、長慶天皇が第98代天皇に列せられたのは大正十五年だということだ。試みに調べてみると、大正八年発行の『小学校教材年鑑』(東京出版社)の歴史に関する部「御歴代天皇」では、97代後村上天皇、98代後亀山天皇となっている。長慶天皇はスルーされているのだ。
事実がよく分からないことが伝説が生じる重要な要素なのだろう。伝説ならロマンが感じられるが、近頃はコロナへの恐怖から事実に基づかない流言飛語をよく耳にするようになった。パチンコ屋が感染源だとか感染者の家が投石されただとか、何の得にもならないデマが飛び交った。この教訓は必ず後世に語り継いでゆかねばならない。