城には「大手」と「搦手(からめて)」がある。日本経済を動かしている大手町は、江戸城の正門大手門があったことに由来している。つまり大手は城の正面である。何事にも表と裏があるものだ。表を固めて敵の動きをしっかり見ておくこと大切だが、裏にも気を付けておかないと、気が付いた時には手遅れだ。
備前東部を代表する山城に「天神山城」がある。この城の大手は、根小屋のあった北麓の田土(たど)から登るルートである。これに対して搦手を守るのは太鼓丸、さらにその先にあるこの城だ。
岡山県和気郡和気町日笠上、日笠下、木倉の境に町指定史跡の「日笠青山城跡」がある。
この城の特徴は、西側や北側に畝状竪堀群を配し、防備を固めていることだ。
草に覆われているが、その痕跡を確認できる。主郭に戻って説明板を読んでみよう。
日笠青山城は、戦国時代に築かれた山城で、天神山城主・浦上宗景の宿老であった日笠頼房の居城でした。天神山城から南東へと続く丘陵上、日笠盆地を一望できる場所に築かれており、その重要性をうかがわせています。
丘陵の頂部に主郭、その北側に北郭、東側の尾根に二の郭が位置し、郭が連なる形式(連郭式)を持った山城でした。また、郭からは竪堀が要所に多く掘られており、防御を意識した構造になっています。
天神山城は、宇喜多直家により天正5年(1577)に攻略されました。日笠青山城も激しい合戦の末に落城したと伝えられています。
和気町
戦国大名にのし上がった浦上宗景には、明石氏、宇喜多氏、日笠氏などの有力家臣がいた。ところが、宇喜多直家に強い野心があったからか宗景に人望がなかったためか、主君を裏切る直家に明石氏も与して、宗景は孤立していく。
日笠頼房だけは宗景を守ろうと奮戦したが、日笠青山城は落城する天神山城と運命を共にしたのである。落城の年は天正五年(1577)とあるが、近年の研究では天正三年(1575)が正しいとされている。かつては軍記物の記述を疑うことなく使っていたが、一次史料の研究が進んだために改められたようである。
城を望んで日笠下に「青山城主 日笠次郎兵衛頼房之碑」がある。
忠義という評価規準で測るなら日笠頼房は誇るべき忠臣である。だが、忠臣だからといって武将として成功するとは限らない。碑の裏面には次のように記されている。
備前日笠荘の日笠氏は坂上田村麻呂の子孫と伝う。若狭国日笠郷に起る。その遠孫は大和国に移るが平安時代末期の将監親政は更に備前国和気郡に来て水精山をもって居城とした。のちの青山城である。頼房は親政から九代目の子孫である。天正十年三月十四日播磨国鵤(いかるが)今の太子町において故あって自決して果てた。その事績は拙著日笠荘に記述してある。
昭和六十二年三月十四日 遠孫 日笠健 建立
若狭国日笠郷は、現在の福井県三方上中郡若狭町日笠である。武士はふつう本貫の地名を名乗るが、日笠氏の本貫は若狭の日笠か備前の日笠か。
いずれにしろ日笠氏は頼之という武将で史上に登場する。彼が宇喜多氏と行動を共にすることを潔しとせず、天神山城の搦手方面で身を賭して戦ったことは確かだ。自らを顧みず義を貫くこと、手段を択ばず生き延びること、武将の生き方として大手と搦手はどちらだろうか。