無血開城といえば本朝ならば西郷隆盛に勝海舟,遠く異朝をとぶらへば北京解放時の国民党軍の傅作義将軍が思い浮かぶ。戦国の世ならば最後の一兵まで戦うのかと戦うのかと思ったら,そうでもなさそうだ。負けると分かっている戦いは無駄以外の何物でもない。
大里郡寄居町大字藤田の正龍寺に「北條氏邦墓 付 夫人大福御前墓」がある。
北條氏邦はこの地の名城・鉢形城の領主で,秀吉の小田原攻めに際して無血開城により将兵や領民を救った武将である。落城後は敵将・前田利家にお預けとなり厚遇された。だが,家康の家臣の榊原康政は,氏邦が総攻撃される前に降伏したのを「敵味方ともに前代未聞の卑怯者」と批評したということだ。
鉢形城の無血開城には,元領主・藤田一族の関わりも見逃せない。正龍寺の近くに「大福御前自刃の地」の石碑が建てられている。
石碑は次のように由来を伝える。
天正十八年豊臣秀吉麾下前田利家を総大将とする鉢形城攻めの際 攻め手に属する上杉景勝勢の先鋒大将であった藤田信吉は大福御前の実弟であり姉の願いを受け和睦開城となり多くの家臣の命を救った史実がある。
開城後大福御前は正龍寺に入り薙髪の日より千日普門品千部満願の日文禄二年五月十日隠棲の庵内で自らの命を絶った。
この大福御前と藤田信吉の実父が藤田康邦である。氏邦墓の隣に「藤田康邦墓 付 夫人西福御前墓」がある。藤田氏は山内上杉家に属する在地領主であったが,康邦の代になって新興の北條氏の軍門に降り北條氏康の三男氏邦を婿養子として迎えた。
新興勢力の台頭と没落,北條氏は戦国武将の典型だ。先に紹介した自刃の地の石碑は,八王子市長の揮毫である。八王子城は氏邦の兄である氏照の居城だ。こちらの城では激戦により多くの人命が失われた。落城も様々なかたちがある。四百年以上の時が過ぎた今では,どちらも美しい戦国ロマンと化している。
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