男性育休の取得が推奨されている。仕事と子育てが両立できる労働環境を構築することは、少子化日本の喫緊の課題である。これがなかなか難しいのは、身近にロールモデルがいないことにあろう。
古代に活躍した神功皇后は、長い遠征中に出産、育児を経験した。夫である仲哀天皇は出産前に亡くなったから、シングルで頑張った。皇后だけにお付きの者がサポートしたのだろうが、何かと苦労は多かったはずだ。
倉敷市二子(ふたご)の高鳥居山に「神功皇后行在之跡」と刻まれた石碑がある。
ここからは川崎医科大学やマスカットスタジアムを一望できる。医大のある山を松島といい、その向こうには早島が見える。その名の通り、神功皇后の時代には瀬戸内に浮かぶ島であった。
皇后は海外遠征を終えて出産し、皇子のホムダワケちゃんとともに都へと戻ろうとしていた。「このまま都へ帰れば、またあの多忙な日々が始まる。大切なこの子のためにも育児環境を整えなくちゃ。皆の者、私は晴れの国吉備で育休に入ります。上陸の準備をしなさい。」そう言ったかどうかは分からないが、皇后一行は高鳥居山に居を定めたのである。
幕末頃に成立したという『備中誌』都宇郡巻之四「二子山」の項には、次のように記されている。二子山は高鳥居山のことである。
二子山
此地昔神功皇后三韓征伐し凱陣有、筑紫にて誉田皇子生れさせ給ひそれより都に登ります道此処にしばし御旅館あり。皇子二歳に成らせ給ふ故に時人此里を呼てニッ子の里といふ。今誤りて二子村といひし也。かくて此処より船にて紀の国へ渡らせ給ふ時、天照大神・春日大明神老翁となりて船路を示し皇子を擁護有て終に皇兄麛阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二皇子を平らけ宝祚を継せ給ふ。其後神託によりて天照大神・春日大明神・仲哀天皇・神功皇后・誉田天皇を崇めて五座八幡宮と申す。則今の二子山西崎鳥居鼻是其旧跡也。然るに此里より沖に当りて松島と云島有。毎夜霊異の神光此里より彼島に通ふ。人皆思へらく神此地へ渡らせ給ふと。果して彼の島に住せ給わんと神託有けれは終に神殿を松島に移し奉りぬ。
九州で生まれた後の応神天皇は、ここ吉備の地で二つになった。二子という地名の由来である。『備中誌』都宇郡巻之三「松島八幡宮」の項に「暫く皇居の地なる故都宇郡と名号せしにやと云」とあるから、郡名まで神功皇后由来である。都宇郡は現在、都窪郡となり早島町が単独で頑張っている。郡合併以前は都宇郡早島町であった。
伝説によれば、二子山から毎夜、レーザー光照射のように松島に向かって光が飛んだという。光の当たった場所には今、両児神社が鎮座している。当神社の略記には「当宮へお泊りの時年の暮にて此の地で新年を迎御歳二歳になり御社号を二子の宮と称せられる。」と記されている。
皇后はたまたまこの地で新年を迎えたに過ぎず、育休として滞在したのではないかもしれない。それでも二子という地名は子育ての象徴であり、神功皇后が大地に刻んだ遺産と言うことができよう。