キャッシュレス賽銭がじわじわと広がっている。時代に合っているとか参拝の実感がないとか、賛否両論あるようだ。スマホ決済をする人が多くなり、金融機関での小銭の取扱いに余計なお金がかかるようになった昨今、キャッシュレスの利便性の高さに疑いはない。
しかし、ネット上の金銭移動で心救われる人はいないだろう。パンパンという柏手やカタンカタンと小銭が賽銭箱に落ちる音には、その場でないと得られないプレミアム感がある。宗教の儀式や施設には、参拝者の心を浄化する作用があるのだ。
豊岡市三宅に国重文の「中嶋神社本殿」がある。鮮やかな朱が周囲の緑に映える。この凛とした佇まいこそ宗教的な空間と言えるだろう。
美しい神社建築だが、国が文化財指定するくらい貴重なのだという。どういうことだろうか。豊岡市教育委員会による説明板には、次のように記されている。
国重要文化財
中嶋神社本殿
明治四五年二月八日指定
境内の中央にあって、前に供え物を供えるための建物(幣殿)と拝礼するための建物(拝殿)が併設されている。棟札写しにより応永三〇年(1423)から正長元年(1428)にかけて造営されたことがわかる。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)。神社建築は正面が一間や三間とすることが多く、中央に柱がくる二間社はめずらしい。重要文化財では全国でわずか六棟しかない。また屋根を支える建物上部の瓶の形の束柱(大瓶束、たいへいつか)、あるいは肩に蓑を着たような束柱(蓑束、みのつか)の上に、渦巻模様が彫刻された部材が付くなど、美麗な装飾がみられる。規模も大きく年代も明確な、きわめて重要な建物である。
専門的には二間社流造(ながれづくり)という様式である。神社正面の柱間を数えたことがなかったので、二間社がどれほど珍しいのかよく分からない。それでも応永とか正長という造営年代の古さはよく分かる。足利将軍家は義持の時代だ。あれから六百年。人々が信仰していたのは何だろうか。
神社正面に「お菓子の神様 田道間守命の生誕地 日本書紀 古事記」と刻まれた碑がある。みんな大好き、お菓子の神様だという。どのような由緒があるのか、市教委の説明板を読んでみよう。
中嶋神社
祭神は天日槍(あめのひほこ、出石神社祭神)の四世の孫である田道間守(たじまもり)と鳥取部連(とっとりべのむらじ)の祖、天湯河棚神(あまのゆかわだなのかみ)。平安時代に記された『延喜式』に社名がみえる。
祭神の田道間守が垂仁天皇の命により「常世の国」に派遣された説話が『古事記』『日本書紀』にあり、そのおり「非時香果(ときじくのかぐのみ)」を持ち帰った。『古事記』はこれを橘(たちばな)としており、また橘は古来菓子の最上品であったことから、菓子の祖神として尊ばれ、その守護神とされている。社名は、田道間守の墳墓が垂仁天皇陵をめぐる池の中にあって、島であったことから名づけられたといわれる。
その神様の名前はタジマモリ。祖先のアメノヒボコは新羅の人で、難波出身の妻アカルヒメを怒らせてしまった。実家に戻った妻を追いかけて来日したが難波に入れず、帰りがけに但馬に立ち寄った。アメノヒボコはその地に留まり、地元の娘マエツミをめとって子孫を残した。その四世の孫がタジマモリである。
第11代垂仁天皇は、このタジマモリに重要な命を下した。『古事記』中巻「垂仁天皇段」には、次のように記されている。
またこの天皇、三宅ノ連等が祖、名は多遅麻毛理(たぢまもり)を、常世(とこよ)ノ国に遣はして、非常(ときじく)ノ香(かく)ノ菓(このみ)を求めしめたまひき。かれ多遅摩毛理(たぢまもり)遂にその国に到りて、その木ノ実を採りて、縵八縵(かげやかげ)矛八矛(ほこやほこ)を将(も)ちて、まゐ来つる間に、天皇既(はや)く崩(かみあが)りましぬ。ここに多遅摩毛理、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を分けて、大后に献(たてまつ)り、縵四縵矛四矛を、天皇の御陵の戸に献り置きて、その木ノ実を擎(ささ)げて、叫び哭(おら)びて、常世ノ国の非常ノ香ノ菓を持ちてまゐ上りて侍(さもら)ふとまをして遂に哭び死にき。その非常ノ香ノ菓といふは、今の橘なり。
垂仁天皇は、三宅氏などの先祖タジマモリを海の彼方の異郷に遣わし、「いつまでも香り高い木の実を探してこい」と命じた。タジマモリはたどり着いた異郷でその木の実を見つけ、ひもで結んだ実と枝成りの実を八つずつ持ち帰ったが、その間に天皇は亡くなっていた。タジマモリは木の実を四つずつに分け、一方を皇后に差し上げ、もう一方を天皇のお墓に捧げた。彼は木の実を手にして「陛下がお命じになった不老不死の実を持ち帰りましたぞ」と叫びつつ死んでいった。その「非常香菓」は今のタチバナのことである。
古事記は「非常香菓」だが、日本書紀では「非時香菓」である。常緑で実の香りや色つやが長持ちするタチバナなどの柑橘類が、タジマモリによって我が国にもたらされたのだ。このためミカンの神様、また「菓子」が古くは果物を意味したことから、今ではお菓子の神様として有名になっている。一昨年は没後1950年の記念だったというから、西暦71年に亡くなったことになる。
中嶋神社では毎年4月の第3日曜日に「菓子祭」が催され、全国から菓子業者が商売繁盛の祈願に訪れる。本殿の前は業者が奉納したお菓子の箱で埋め尽くされ、それを見るだけでも気分が高揚してくる。ここでのお供えは今どきのキャッシュレスなのだが、ネット決済ではなく物納であった。お菓子には人の心を救う大きな力があるのだ。これもタジマモリのおかげと言えよう。