平成29年に「全国松田サミット」という松田氏一族の同族会が神奈川県足柄上郡松田町で開催された。藤原秀郷流の波多野氏が松田郷を所領としたことが、松田氏のおこりだという。
鎌倉幕府討伐で軍功のあった松田元国が、備前国御野郡伊福郷と津高郡津島郷を領したことから、備前松田氏の歴史が始まったという。初めは富山城を本拠としていたが、中興の祖として知られる元成の時代から金川城を本拠とした。その元成の供養塔を草叢の中に訪ねたのでレポートしよう。
岡山市北区御津新庄に「西谷城跡」がある。草をかき分け、やっとのことで「松田氏供養塔」を見つけた。
供養塔の銘を読み取ってみよう。
(正面)華光院殿妙国日唱大居士
現光院殿宗持日量大居士
(側面)金川城主 松田左近将監藤原元成
平岡郷新庄城主 弟 松田彦次郎藤原元貞
中興の祖として西備前の覇権を確立した元成は、山名氏と結んで赤松氏から自立しようとした。要衝福岡城を奪取したまではよかったが、赤松勢浦上氏の三石城までも攻め取ろうとして失敗し、磐梨郡矢上村の山の池(岡山市東区瀬戸町塩納)という所で自害した。
どうやらその際、元成の弟で新庄城主の彦次郎元貞も亡くなったらしい。新庄城とは西谷城の異名である。元成兄弟の陣没は文明十六年(1484)二月八日だと伝えられる。
石塔の正面に「奉為三百五十回忌」と刻まれている。1484年から349年目が三百五十回忌にあたる。それが天保四年(1833)。この年、備前・美作・阿波・讃岐の松田一族と旧臣の子孫の協力により、供養塔が建立された。
西備前の覇者松田氏。戦国大名化して近世大名、華族という道もあったかもしれない。そう簡単でないのが運命である。しかし、一族の団結を天保、平成と垣間見ることができた。松田一族の底力である。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。