高速道路を走ってPAやSAを次々と通過していく。はじめのうちは快走しているものの、疲れてくると「PAまであと何キロ?」と意識し始める。だが、Don't Worry,I'm wearing!10分も走ると休憩できますよ。どうやらPAは15kmを目安に設置されているようだ。
明石市魚住町長坂寺(うおずみちょうちょうはんじ)に「長坂寺遺跡」がある。右側の工事現場ではなく、左側の通路が伸びる方向で3か所のトレンチが掘られた。
ここには聖徳太子ゆかりの長坂寺があったとされていた。明石市教育委員会の木製標柱には、次のように記されている。
(左側面)奈良時代の古瓦が出土、瓦葺きの建物であったことがわかる。
(右側面)古代山陽道の明石駅家(あかしのうまや)と賀古駅家(かこのうまや)の中間につくられた駅家跡と考えられる。
古瓦の出土から寺院跡と考えられてきたが、近年の発掘調査により駅家跡だと判明したようだ。詳しいことは、向こう側の説明板に記されている。
古代山陽道と邑美駅家(おうみのうまや)
7世紀後半より律令国家建設が始まり、中央(都)と地方を結ぶ、山陽道(大路)、東海道、東山道(中路)、北陸道、山陰道、南海道、西海道(小路)の7つの街道が整備されました。街道には30里(約16km)ごとに駅家が設けられ、特に重要な街道である山陽道には、規定の約半分の距離の15里(約8km)ごとに駅家が設けられた結果、播磨国には9つの駅家がありました。そのうち「明石」と「賀古」の間にあったとされる駅家の名称については文献が残されておらず不明ですが、当時の地名が「邑美郷」であるとこ ろから「邑美駅家」と呼んでいます。
2011年(平成23年)に県立考古博物館によって該当する箇所の発掘調査が行われ、駅家に関係するとみられる遺構・遺物が見つかりました。
・築地塀(ついじべい)に囲まれた方形区画の存在
水田畦畔から、一辺80~90mの正方位の方形区画と、側溝らしい掘り込みとともに8世紀中ごろの須恵器と瓦片が多数出土しました。
・播磨国府系瓦の出土
出土した瓦には、播磨国府系瓦の一種である長坂寺式軒平瓦や古大内式軒丸瓦などが含まれています。これらの瓦は播磨国司の管理下で製作され、国内の役所や寺院で共通して使われたもので、他の播磨の駅家と共通する瓦です。
・瓦葺きになる以前の施設
より古い時期の掘立柱建物2棟が発見されました。建物の向きは正方位から約45°ずれていて、古代山陽道の方向に一致しています。
「以上のような状況証拠からみて、長坂寺遺跡が文献に現れない幻の「邑美駅家」である可能性は限りなく高まった。」(県立考古博物館)としています。
2020年3月吉日 魚住まちづくり協議会
瓦葺きの駅家は正方位で建てられ、より古い時期の建物は山陽道に沿っているという。これは野磨駅家(上郡町)、布勢駅家(たつの市)、明石駅家(明石市)でも同様である。新羅から訪れる使節を意識して、駅家をグレードアップさせたのだろう。
播磨国内には東から明石、邑美(以上、明石市)、賀古(加古川市)、佐突、草上、大市(以上、姫路市)、布勢(たつの市)、高田、野磨(以上、上郡町)の9駅があった。国家最重要の幹線道路だけに、駅家の間隔は既定の約半分の距離だった。使節に対するきめ細やかな対応に配慮したのかもしれない。
規定によれば、30里ごとに駅家が設けられていた。今の距離では約16km。驚くべきことに、PAの間隔15kmに近いではないか。これは単なる偶然か。古代の駅家をも参考に制度設計したからか。それとも、そのくらい移動すると人間は休みたくなるからか。山陽道の名は今も受け継がれている。
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