医療が未発達だった時代には、痛くなったらとりあえず神仏に祈るしかなかったのかもしれない。この「紀行歴史遊学」においても頭痛に効く神様や腹痛に効くお地蔵様を紹介したことがある。
ただし、旅先で出合う確率が高いのは歯痛の神様である。もっとも有名なのは堀辰雄が愛した「歯痛に効く観音様」だろう。本日は美しい五輪塔の姿をした神様である。
明石市魚住町清水に「清水の五輪塔」がある。美しすぎる故に、県重文に指定されているようだ。
西国街道沿いにあるから、道行く多くの人々の信仰の対象となってきたのだろう。いつの時代の五輪塔だろうか。説明板を読んでみよう。
兵庫県指定文化財(昭和五十三年三月十七日)
建造物「石造五輪塔」
一、地輪に「貞和二年二月時正」(一三四六)の銘が彫られている二m近くある石塔である。貞和というのは南北朝時代の北朝方の元号、時正(じしょう)は彼岸の中日を意味する。
一、全体にどっしりした落ち着きをもち、水輪のふくらみや火輪の反転に豊かな美しさをみせる。
一、建武中興など、打ち続く戦乱の犠牲者を弔う供養塔として建てられたものと思われる。
兵庫県教育委員会
明石市教育委員会
南北朝の争乱における犠牲者を供養したものだという。貞和二年(正平元年、1346)は、南朝では若き後村上帝を血気盛んな楠木正行と老練な北畠親房が支えるという態勢だった。北朝は高師直を主力として南朝と対峙していた。ただし、正行が戦死する四条畷の戦いは貞和四年であり、貞和二年までにそれほど激しい戦闘があったわけではない。街道沿いにある県教委の説明板では、どのように記されているだろうか。
県指定文化財 石造五輪塔
指定年月日 昭和53年3月17日
所有者・管理者 西福寺
五輪塔は、塔婆の一形式で、上方から団形・半球形・三角形・球形・方形の五輪を積み、「空・風・火・水・地」を表わす。
この塔は、花崗岩でつくられ、基壇上からの高さは、1.76メートルである。
全体にどっしりとした落ちつきを持ち、台石の正面(北)左右2行の刻銘から、貞和2年(1346)の造立であることがわかる。
水輪のふくらみ、笠の軒反りなど、いずれも南北朝時代の特徴をよく示し、当地方における、この時期の秀れた石造遺品として貴重なものである。
平成5年11月 兵庫県教育委員会
お世辞にもスマートとは言えないが、どっしりとした安定感がある。五輪塔そのものの美術的価値は示されているものの、その建立の意味するところは分からない。少し古い文献に当たってみよう。明石史談会『明石史資料』大正14年には、次のように記されている。
清水村の清水神社前の路傍に一丘あり古松数株ありて其下に大なる五輪塔あり総高六尺五寸、水輪石の囲七尺二寸、地石横五尺三寸四方竪一尺五寸あり正面に貞和二年、二月□正と二行に刻せり、二月の下の文字不明なり、貞和は北朝の年号にて其二年は南朝の正平元年に当る、後醍醐天皇の隠岐の国より還御ありて建武の年号を始め玉ひし年より十年目である。此の時代は赤松貞範が播磨守護職の時にて、始めて姫路に築城した頃であるから、北朝貞和の年号の行はれてゐたことは無論のことである。此の珍らし年号入の塔について土地に何等の口碑も伝説もない、只歯神様として、歯痛の願掛するもの夥しくありといふ此の珍らしい金石文について今迄誰も注意を払つてゐないのはどうしたものか。
世界遺産として知られる姫路城は、貞和二年に赤松貞範が姫山に本格的な城を築いたことが始まりだという。そのことと清水の五輪塔が直接関係しているわけではなさそうだ。
面白いのは、歯痛の神様として信仰されていたという事実だ。先日も五輪塔の一部が歯神様とされていたことを紹介した。五輪塔と歯痛は何か関係があるのだろうか。
各地に伝わるおまじないには、歯痛のとき「アビラウンケンソワカ」という真言を唱えれば治まる、というのがある。とすれば、五輪塔も関係なくはなさそうだ。まさか、「歯さえ痛くなければ…」と言葉を残して討死した武将の墓だなんてことはないだろうな。
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