仏像なら如意輪観音が好きだ。片膝を立て頬杖をつき,アンニュイな雰囲気を漂わせている。観音様御自身は倦怠感など感じていらっしゃらないだろうが,俗世界に住む者には親しみやすい仏像である。
長野県北佐久郡軽井沢町大字追分の泉洞寺には,文学愛好家の間ではわりと知られた石仏がある。
軽井沢で療養に当たった堀辰雄は,静かなこの地をこよなく愛した。朝夕の散歩で泉洞寺の石仏に親しみ,その印象を作品にしている。『大和路・信濃路』所収の「樹下」がそれだ。読んでみよう。
「お寺の裏の笹むらのなかに、こう、ちょっとおもしろい恰好をした石仏があるでしょう? あれはなんでしょうか?」夏の末になって、私はその寺のまだ四十がらみの、しかしもう鋭く痩せた住職からいろいろ村の話を聴いたあとで、そう質問をした。
「さあ、わたしもあの石仏のことは何もきいておりませんが、どういう由緒のものですかな。かたちから見ますと、まあ如意輪観音にちかいものかと思いますが。……何しろ、ここいらではちょっと類のないもので、おそらく石工がどこかで見覚えてきて、それを無邪気に真似でもしたのではないでしょうか?……」
「そういうこともあるんですか? それはいい。……」私にはその説がすっかり気に入った。たしかに、その像をつくったものは、その形相の意味をよく知っていてそう造ったのではない。ただその形相そのものに対する素朴な愛好からそういうものを生んだのだ。そうしてその故に、――そこにまだわずかにせよ残っているかも知れない原初の崇高な形相にまで、私のようなものの心をあくがれしめるのであろうか? こんないかにもなにげない像ですら。……
「ときどきお花やお線香などが上がっているようですが、村の人たちはあの像にも何か特別な信仰をもっているのですか?」
最後に私はそんなこともきいてみた。
「さあ、それもいつごろからの事だか知りませんけれど、わりに近頃になってからだそうですが、歯を病む子をつれて、村の年よりどもがよく拝みに来ます。」そういってその住職は笑った。
如意輪観音が歯痛に効くという信仰は各地にある。頬に手を当てているお姿からの連想であろう。本当は思惟しているのだが,歯痛で悩んでいるようにも見える。意の如く願いをかなえてくれる観音様のことだ。歯痛止めなどお安い御用かもしれない。
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