神戸方面に車で行くことが少ないから、第二神明道路をそれほど使ったことがない。どこかで第一神明道路につながっているのだろうと漠然と思っていたが、このたび調べて驚いた。第一神明と呼ばれる道路はないというのだ。第一中学校があるのに第二中学校がないという話は聞いたことがあった。しかし、第二があって第一がないとは。
この不思議な第二神明道路の西端に明石西インターチェンジがあり、国道2号の加古川バイパスに続いている。そのすぐ南側に西国街道が通過し、さらにその南に国道2号がある。道沿いに稗沢池という溜池があるが、ここを古代山陽道が通過していた。古代から東西交通のさかんな場所のようだ。
明石市二見町福里(ふたみちょうふくさと)にある稗沢池を「古代山陽道」が通過している。写真は上が東向きの上り、下が西向きの下りである。
古代官道は可能な限り直線に整備されている。このあたりは土地に起伏が少なく、整備しやすかったことだろう。ここから南には山陽本線、山陽新幹線、明姫幹線、山陽電鉄がほぼ同じ方向に通過している。ただ現代の山陽道だけがずいぶん北の山中を突き抜けている。
池の西側に説明板があるので読んでみよう。
稗沢池(ひえざわいけ)と古代山陽道
稗沢池の中央には、池をほぼ二分する直線の堤がみられます。 これは、古代(奈良一平安時代)の山陽道の道路痕跡であると考えられており、2001年には東側の休耕田から古代遺構が発掘されました。
古代の山陽道は、中央政府によって計画的に造成された唯一の「大路」で、直線的なのが特徴です。
弁天さん
池を横切る堤の端にすこし盛り上がった小山があります。 これは古墳時代後期につくられたとされる稗沢池古墳です。直径15メートルほどの小さい古墳ですが、地元では「弁天さん」と呼ばれ、大切にされています。
池の中央にある堤が古代山陽道だという。このように目に見える古代官道は珍しい。池の東側で発掘調査が行われ、堤の方向に続くことが確認できたのである。一里塚のように見えるのは古墳だというから、今見ているのは歴史が幾重にも重なった景観だと分かる。
この直線の官道をどのような人々が通ったのだろうか。もしかすると藤原広嗣の乱を鎮める官軍が西へ西へと向かったかもしれない。それが当たり前すぎるなら、酒に酔って上機嫌になった大伴旅人がふらふらと歩いた道だったと想像したい。
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