学業成就は若い人の切実な願いである。それで、菅原道真を祀る神社が各地にあるのだ。いや、道真公だけでは手が足りないらしく、各地を巡っていると、橘逸勢、僧契沖、藤田東湖も学業成就に効験あらたかだと分かった。今回は、学問の神様リストに阿部正弘公を付け加えるとしよう。
福山市丸之内一丁目の備後護国神社は、もと阿部神社と呼ばれていた。境内に「阿部正弘公像」がある。
阿部正弘といえば、ペリー来航、日米和親条約締結という歴史の節目に老中首座であった政治家である。彼の事績をどう見るかは歴史評価の大きな問題である。開国を決断し新時代を導いた開明的な政治家と見ることもできようし、外圧に決然と対処することなく事なかれ主義に終始し、幕府の権威を低下させた凡庸な政治家との見方もあろう。
水戸藩の徳川斉昭は、正弘を次のように評している。中公文庫『日本の歴史19開国と攘夷』からの引用である。
水越などとちがい、憤激などは致さざる性にて、申さば瓢(ひさご)にてなまずをおさえ候と申す風の人
水野忠邦のようにすぐカッとならず、ぬらりくらりの「ひょうたんなまず」の人だと言っている。穏やかながら容易には屈しない、したたかな政治家だったのだろう。
そういえば、前首相は「どじょう総理」と呼ばれ、党首討論では野党党首を圧倒する勢いを見せるなど、個人的な力量は高かった。しかし悲しいことに、政権を支えるべき与党への信頼が失われた状況で総選挙をせねばならず、敗北の責めを負って退陣することとなった。
冒頭で正弘を「学問の神様」だといった。しかし、道真公をはじめ、逸勢、契沖、東湖らは学者あるいは文化人として著名である。なのになぜ、政治家の正弘に「合格就職成就」の力が備わっているというのか。まさか口利きをしてくれるわけではあるまい。清廉で知られる正弘には無縁なことだ。説明板を読んでみよう。
阿部正弘公石像潜り
正弘公は天保十四年(一八四三年)二十五歳にして江戸幕府老中、今の大臣になり教育に力を注ぎ嘉永五年(一八五二年)老中筆頭、今の総理大臣に就き江戸と福山に誠之館を建てる。安政元年(一八五四年)日米、日英、日露の和親条約を結び開国し、近代文明国、日本の基礎を作る。また、学問のできる人材を広く重用して教育の重要性を昂揚し、日の丸を日本の国旗と制定した人でもあります。阿部家十一代、福山藩主七代目の正弘公は、当神社の御祭神であり、希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられ、石像を潜り希望をかなえて下さい。
藩校・誠之館をつくり学問を奨励したお殿様であった。地元福山の誠之館は、今も広島県立福山誠之館高等学校として伝統が受け継がれている。また、江戸の誠之館は文京区立誠之小学校となり、学校のホームページに正弘とのゆかりが紹介されている。なるほど学問の神様である。
正弘が国旗を制定したというが、正確には「日本国総船印」を定め、船舶の所属を明らかにしたのである。日の丸を国旗に、鎖国の陋習を廃して開国へ。そう言うと、いかにも愛国的で近代的かのように聞こえるが、正弘は眼前の課題に誠実に対処したまでである。ペリーと事を構えず平和を維持したのも、「ひょうたんなまず総理」の真骨頂である。