「聡明」や「俊敏」は人への形容としては最高レベルだろう。だから、そのように育ってほしいと願い、親は子どもの名前にその文字を用いる。自分の名前に聡明俊敏の4文字がない諸氏も、この神社にお参りすれば、今まで隠れていた能力が発現すること間違いなしだ。
結城市大字結城に「聡敏(そうびん)神社」が鎮座する。祭神は聡敏大明神、水野勝成である。
水野家の紋は沢瀉(おもだか)紋である。オモダカは水辺の植物で、水野という家名にふさわしい。また、オモダカは現在の慶事用90円切手にも意匠として採用されており、縁起が良い植物だ。
水野勝成は徳川譜代の有力武将として大坂の陣で活躍し、元和5年(1619)に福山十万石の領主となる。福山では、干拓、開墾、治水など領国経営に精進し、特に上水道の整備は城下町の形成に大きく寄与した。いま福山城にある水野勝成像が裃姿であることが、強き武将以上に良き領主として福山市民から追慕されていることを示唆している。その後の動きについて、神社境内の「聡敏神社由来記」から抜き書きしよう。
その後水野家は累代福山に在世したが元禄年間五代勝岑二歳にして逝去 後嗣無きにより一時水野家廃絶の運命となったが 勝成公の戦功と公が家康の母(伝通院)方の従兄弟であった縁故に依り元禄十一年下総結城に一万八千石をもって再封された その後伝統連綿 明治を経て二百九十余年今日に到った
文化十三年結城聡敏神社は福山聡敏神社より分霊勧請せられた
正確には、水野家嫡流を分家で勝成の曾孫にあたる勝長が相続し能登西谷1万石で再興したのが元禄11年(1698)、次いで元禄13年(1700)下総結城に移封され、元禄16年(1703)に1万8000石となった。勝長は勝成の末子勝忠の二男勝直の嫡子ということだ。勝長が大名に取り立てられたのは、時の権力者、柳沢吉保に近かったことも関係あるだろう。
こちらは福山市北吉津町一丁目にある「聡敏神社」である。城内に祀られていた霊社を享保5年にこの地に移したものだという。
福山では備後表(びんごおもて)を特産品にした水野氏、結城では結城紬(ゆうきつむぎ)、桐下駄などを有名にした。やはり持つべきは聡明かつ俊敏なお殿様である。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。