由緒の正しさを主張するため家系図でさえ偽作されるのだ。いはんや神社の由緒においてをや。しかし,神徳を疑い事実かどうかを詮索するなら,宗教は成立しない。荒唐無稽な由緒であっても,それが語られる理由があったはずだし,信仰する人にとってそれは事実として認識されてきた。
福山市松永町柳津に「橘神社」がある。祭神は橘諸兄と橘逸勢であり,地元の氏神様として崇敬を集めている。
本特集・上で紹介したように,承和の変で失脚した橘逸勢は,伊豆に流される途中の遠江で斃れた。そこには橘神社があり,逸勢の墓がある。京から東へ下ったはずの逸勢,遠江から京へ帰ったはずの娘。だが,備後の橘神社には次のような由緒がある。『柳津村誌』を読んでみよう。
橘逸勢に一女があった,妙仲と言い父祖の菩提を弔わんとて諸国修行に出で当地を訪れ,海辺にてキヨという婦人と出会い伴われてその宅に招せられ滞在中も父祖の霊を祀って朝夕礼拝怠りなく深く里人を感銘せしめた。死後里人宮がいちに小祠を建てて橘諸兄,逸勢の霊を祀った,之れ橘の宮の創建と伝えられている。
また,橘神社は,明治初年まで「清平大明神」という名称だった。明治3年に地元の庄屋は,この神社について次のように由緒を説明している。
橘親王様御舟にて御流れ寄せ遊ばされ候節,御病気の体吉右衛門御見受け,吉右衛門方へ御供仕候同人娘きよと申婦人,御介抱申上候処,御病死被遊,吉右衛門持地に御葬仕唯今の地え清平大明神と御勧請申上候。
ほんまかいな。近世的な雰囲気がにじみ出ている。しかし,このような由緒が生成される事情こそ史実なのだ。神社の由緒は,本特集・中で紹介した『発心集』の「橘逸勢之女子配所にいたる事」が底本となった後日談である。
この神社は「宮がいち」にあったが慶長年間に現社地に遷座したという。『発心集』は江戸期によく読まれた説話集だ。『発心集』の普及と橘神社,この二つをつなぐのは霊験を語り伝えた旅芸人か,発心に導く僧侶か,それとも学問好きな神官か。橘の神紋は,近くの福山市立柳津小学校の校章となり,神社は書道上達,学業成就の神様として崇められている。橘逸勢の娘を孝女と称賛する声は,ここでは氏神様への信仰と昇華している。
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