親子の情愛は他のいかなる絆よりも強い。橘逸勢とその娘の話である。父が理不尽な罪で責めを負わされたとき、娘は行動を起こした。配所に向かう父の後を追い、父が亡くなるとその地に留まり出家して菩提を弔い、父の名誉が回復されるとその骨を持って京に帰った。
大阪府泉南郡岬町孝子(きょうし)に「橘逸勢父娘墓」がある。上の写真が父の墓で「贈従四位下橘逸勢墓」、下が娘の墓で「孝女橘氏墓」と刻まれている。
逸勢の気丈な娘の話は、正史である文徳実録に記載され、さらに説話集『発心集』に取り上げれられている。人がいかに発心し出家していくかを描いたこの説話集では、次のように紹介されている。巻八「橘逸勢之女子配所にいたる事」を読んでみよう。
遠江の国の中とか,なかばなる道のほどに,かたちは人にもあらず,影のごとくやせおとろえて,ぬれしほたれたるやうにて,たずねきたりけり。待つけて見けむおやの心いかばかりおぼえけむ,去ほどに行きつきていく程もへず,父おもきやまひをうけたりければ,此むすめ,ひとりそひて残り居て,ひめもすよもすがらおこなひつとむるさま,さらに身命ををしまず。これを見きく人なみだを流し,あはれみ悲しまぬはなし,後にはあまねく国の中こぞりて,たふとみあへり。わざとまうでつゝ縁をむすぶたぐびもおほくなんありける。さてほどへて後,国の守につけて,みかどに事のよしを申,ゆるされをかうぶりて,父のかばねをみやこへ,もてのぼりてけうやうのをはりとせむとこひければ,そのありさまをきこしめして,おどろきて,又ことなくゆるされけり,よろこびて,すなはちかのほねをくびにかけ,かへりのぼりにけり。むかしも今もまことに,心ざしふかくなりぬる事は,かならずとぐるなるべし。
美しい孝行話のように思えるが、文芸評論家の馬場あき子は『世捨て奇譚』で次のように看破している。
入京後の逸勢の娘の様子を伝える逸話は残念ながら残っていない。しかし,白骨を首に吊して東海道を上ってきたというそれだけでもう充分である。これは痛烈な冤罪に対するデモンストレーションであり,権門藤原氏に対抗するすさまじい,いやみな反抗である。
伝えるものが何もない中で、大阪府南部に上記の史跡がある。なぜ和泉の国にあるのか。その理由について『みさき風土記』(岬ライオンズクラブ編)は次のような二説を紹介している。
一は妙沖尼(俗名あやめ)が父の遺骨を抱いて阿波の国に渡る途中,深日浦に上陸,そのまま下孝子にとどまった。二は源平合戦に敗れた平家の武者が下孝子に隠れ住んだが,身分をかくすために,ヨロイ・カブトを埋め,その上に父娘の墓を立てて偽装した。
阿波の国に渡る理由は何か。あやめという俗名が平安貴族の女子にあったのか。落武者はなぜ偽装墓を橘父娘のものとしたのか。墓の形状から、おそらくは近世的な儒教道徳が広まった後の建立だろう。孝子越えををする旅人に啓発するためか、あるいは、孝子という道徳的な地名にちなんだシンボルとされたのか。そこで『日本歴史地名大系28大阪府の地名Ⅱ』で地名の由来を調べた。
地名は橘逸勢の娘が,配流途中に病死した父を当地に葬り,妙沖と名乗って菩提を弔ったので,その孝心にちなみ名付けられたという。また役小角が讒言によって追われた時,役人が小角の母を捕らえようとしたため,母の身を思ってこの地で捕らえられたという小角の孝心にちなむとも伝える。
とすると,橘逸勢や役小角にまつわる事実があって伝承が生まれ地名にとなってきたのか。別の語源から「きやうし=きょうし」と呼ばれていたところに「孝子」の字が当てられ伝承が創りだされたのか。墓の形状は近世的だが,その時代に建て替えられたことも考えられる。まず,孝子の地名が文献上どこまで遡ることができるのか,また『日本歴史地名大系28大阪府の地名Ⅱ』で調べてみよう。
鎌倉時代所期の成立といわれる「諸山縁起」の「転法輪山」の宿の次第に「孝子嶽」「孝子の多輪」とみえ,当地辺りに葛城修験道の行場があったことが知られる。
そうなると,橘逸勢よりも役小角のほうが有利となり,役小角の孝行→孝子の地名→橘逸勢の伝承,との流れも考えられる。むしろ,修験道の隆盛→役小角の伝承→孝子の地名,と考えるほうが自然かもしれない。
「橘逸勢父娘墓」を訪れたのは一週間ほど前のことである。この夏の暑さが雑草の成長によかったのか、墓の周囲は草に覆われ、足の踏み場を選ぶほどであった。純真なまでの孝行心か、権力者へのデモンストレーションか、娘の本心を知ることはできない。修行でも示威行為でもよい,この日の天気からはギラギラしたものが似つかわしいような気がした。
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