藤原道長は人をからかうのが好きで、和泉式部のことを「浮かれ女」と呼んだ。『和泉式部集(第二)』に、次のような歌が掲載されている。詞書から読んでみよう。
ある人のあふぎをとりてもたまへりけるを御らんじて、大とのたがぞと問はせ給ひければ、それがときこえたまへければ、とりて、うかれ女のあふぎと書きつけさせたまへるかたはらに
こえもせむ こさずもあらむ 逢坂の 関もりならぬ 人なとがめそ
ある人が扇を持っているのを道長が見てこう言った。「それは誰のや?」「いやその~、式部があげるっていうもんだから…」「ほう、ちょっと貸してみ」道長は扇を取って、「浮かれ女の扇」と書きつけた。この扇を見た式部は、「はん?逢坂の関守なら関を越える人をチェックするのは当然だけど、私の恋がどこまで進もうが、あんたの知ったこっちゃないでしょ」と書いて返した。
さすがは才女、和泉式部の面目躍如たるものがある。これほどの女性だから、噂がウワサを呼んで数多くの伝説が生じた。本ブログでも「和泉式部の『へぼ歌』」「和泉式部の小賢しい歌」で、尾道市の向島に伝わる伝説を紹介した。
宮津市文殊の天橋立神社近くに「磯清水」という井戸がある。
この井戸は昔から有名で、和泉式部が歌に詠んだという。説明板を読んでみよう。
この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として喧伝されている。
そのむかし、和泉式部も
「橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」
と詠ったことが伝えられているし、俳句にも「一口は げに千金の磯清水」などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重されてきたことが明らかである。
延宝六年(一六七八)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水記」を刻んで建碑した。この刻文には
丹後国天橋立之磯辺有井池清水涌出、蓋有海中而別有一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、 云々
とある。
湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪ずれる多くの人々に親しまれ、昭和六十年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。
宮津市教育委員会
少し口につけてみたが、確かに塩味はしない。海面とレベルがそんなに変わらない場所で真水とは不思議なことだ。
和泉式部の夫、藤原保昌は丹後守として当地に赴任している。式部も一緒に来ていた。だからこそ京に残った娘の小式部内侍が「まだふみもみず天橋立」と詠んだのだ。母からの手紙も見ていないと、見事な歌で代作疑惑を否定してみせたのである。
一方、天橋立を訪れた和泉式部は、不思議な磯清水が気に入り、歌を詠んだ。天橋立の松の下にある磯清水、都にあったなら貴方も汲むことができるでしょうに。歌中の「君」とは娘なのか恋人なのか。
しかし、この歌、式部にしてはあまりにも平凡ではないか。修辞が施されていない。もちろんストレートな歌があってもよいが、『和泉式部集』にこの歌が見当たらないことに不審を覚える。
さらに柳田国男が、「この婦人のいた、生まれたという古跡には、奇妙に松の樹があるのです。」と『女性と民間伝承』(角川文庫)で指摘している。確かに「松の下なる」と「松」が詠み込まれている。どうも伝説の匂いがする。
西條静夫『和泉式部伝説とその古跡<丹後・丹波編>』(近代文藝社)を頼りに、さらに調べを進めると、細川幽斎の家集『衆妙集』に次のような歌があることが分かった。
与謝のうらにて
よさの浦松の中なるいそ清水都なりせは君も汲みゝん
細川幽斎が和泉式部の歌を真似たのだろうか。西條氏は、石上堅『水の伝説』(雪華社)の記述をもとに、そうではないという。
誓願寺一派の比丘尼によって、この場所で式部供養の折り、幽斎の歌を改作し、広く伝えられたものと考えるのが妥当であろう。
比丘尼のキャンペーン効果は絶大だった。幽斎の丹後入国が天正八年(1580)、その百年ほど後の延宝六年(1678)には、時の領主・永井尚長は「磯清水記」において、和泉式部作として件の歌を紹介しているのである。写真右の石碑の碑文を読んでみよう。
磯清水記
丹後国天橋立磯辺有井池清水涌出、蓋在海中而別有一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、郷談有言和泉式部和歌曰 橋立農松農下奈留磯清水都奈利勢波君毛汲末志云々 式部従藤原保昌来当国其所伝称非無縁也 今応清水混海鹹而尋其水路新構幹欄以成界限永使勝区之名垂於不朽而考古之人無弁尋之疑
延宝六戊午年
当国宮津城主 大江姓尚長 建
弘文院林学士 誌
丹後国の天橋立の磯辺に井戸があり清水が湧き出ている。おそらく海とは別の水の流れがあるのだろう。それゆえ古来、景勝の地とされ、「磯清水」と呼ばれている。地元では、和泉式部に次のような歌があると言われている。
橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし
式部は藤原保昌に従い当国に来ているので、このような伝承があるのは故なきことではない。近年、清水に海水が混じるようになった。そこで水脈を探し、新たに柵を設けて境界を作り、景勝の地としての名声を永遠に伝え、歴史を調べる人が疑問を抱かないようにしたのである。
撰文は、林家二代目で「日本三景」を列挙した、春斎である。建碑は宮津藩主の永井尚長(なおなが)である。尚長は学問好きで将来を嘱望されていたが、27歳の若さで亡くなってしまう。
驚くのは、その死因である。『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」の延宝八年(1680)6月26日条に次のような記述がある。
この日増上寺の法塲に於て、内藤和泉守忠勝失心し佩刀をぬき、永井信濃守尚長をさしころす。遠山主殿頭頼直はしりよりて、和泉守忠勝を抱留しかば、関東郡代伊奈兵右衛門忠易へめしあづけらる。
なんと、あろうことか鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺されたのだという。忠勝も同じく27歳、翌日に切腹を仰せ付けられた。同級生の間に何があったのか。7月9日条に次のように記述されている。
ことし縁山(増上寺)の警衛うけたまはりしが、発狂して尚長を害し、死をたまはりしなり。
忠勝の発狂として処理されている。手を下したのは忠勝だが、事情聴取は十分に行われたのだろうか。彼なりの言い分があったのではないか。後の浅野内匠頭の処分を思い起こさせる。
ところで、磯清水は海に囲まれていながら真水なのか。この不思議には、次のような推理がある。林直道『日本歴史推理紀行』(青木書店)である。
そのわけは、井戸のすぐ北側にくっついて、枝と葉を茂らせ、井戸全体の上にこんもりかぶさっている「たもの木」という樹齢二百年くらいの大きな神木があり、この木の根が地中の塩分を吸いとるからだという。
たもの木が塩分を吸収しているという。バットの素材としても知られる木だ。樹木は塩分に弱いのではないか。にわかに信じられないので、もう少し調べてみよう。
すると、「ガイベン・ヘルツベルクのレンズ」という現象だと分かった。周りを海で囲まれた砂の島においては、地下に海水が浸み込んでくる。しかし、雨水がたまると、レンズ状の淡水塊が形成される。淡水は海水よりも軽いため簡単には混ざらないのだ。磯清水で真水が汲めるのも、天橋立に見事な松並木があるのも、雨水による帯水層のおかげである。
このように、磯清水は海水淡水化装置ではないので、水を汲み上げすぎると、淡水レンズが小さくなり海水が混ざってしまう。磯清水の奇跡は自然の絶妙なバランスの賜物である。
和泉式部かと思ったら細川幽斎だったり、保存に努めた若き領主が殺されたり、比重の違いによって水源が確保されていたりと、磯清水は話題が豊富だ。深くはないはずだが、実に奥の深い井戸である。