刀は武士の魂というが、鉄砲で幕府に仕えていた「鉄砲方」という幕臣がいた。井上正継と稲富直賢は鉄砲方(大筒役)の同僚であった。正保三年(1646)9月のこと、稲富が五貫目玉の五十町打の演習を許可されたことで、井上は「(同じ鉄砲方の)田村景利ならともかく、稲富なんぞにできるものか」と悪口を言っていた。これを聞いた稲富が怒り井上と口論になった。同僚がなだめて二人を自宅に招き、その日はいったん帰ったものの、後日、再び話し合いが行われた際に事件は起きた。
同僚が稲富を残して井上を先に帰らそうとしたところ、井上が同僚に斬りつけてきた。これを見た稲富も刀を抜いて井上に斬りつけたが、逆に殺されてしまう。その後、井上は振り下ろそうとした刀が鴨居にくい込んだところを刺殺された。
裁きでは次のような見方が示された。稲富は悪口を言われたとはいえ、ベテランの井上に教えを乞う態度があってもよかったのではないか。井上はこれまで特別に目をかけられていたのに、思い上がりが過ぎていたのではでないか。このたび大変な騒動を起こしたことにつき、両家とも武士の身分を剥奪する、という厳しい判決が下された。『徳川実紀』正保三年九月廿六日条が伝える刃傷事件である。
井上家はその後復活し幕末まで存続するが、稲富家と幕府との関係はここで終わる。ただし、稲富流砲術は各地の大名にも伝えられ、今も砲術の代表的な流派として知られている。本日は直賢の祖父の兄、稲富流の祖の供養塔を紹介する。
宮津市文殊の智恩寺の境内に「稲富一夢斎の墓」がある。
立派な墓碑だが、稲富一夢斎をまったく知らない。まずはプロフィールを宮津市教育委員会の説明板に教えてもらおう。
この宝篋印塔は、近世初期における鉄砲の名手として名高い稲富一夢斎の墓と伝えている。一夢斎は伊賀守直家といい、代々一色家の家臣として、弓ノ木城主(与謝野町弓木)であったが、後には細川忠興の家来となり、さらに徳川家康の知遇をえて、鉄砲の名手としての名を謳われた。
(中略)
ことに主人一色義俊と共に弓ノ木城に籠城中、細川の軍勢を相手に幾度か戦ったが、その大軍も直家の鉄砲で進むことができず、やむなく和を乞うたといわれている。
この宝篋印塔の台石には、左のように刻まれている。
伊州大守泰誉栄門
施主者 羽柴丹後守高知
慶長十六年辛亥二月六日(一六一一)
従ってこれが一夢斎を葬った墓か、あるいは京極高知の志で建てられた供養塔か、それは明らかではないが、古来この塔を一夢斎の墓といっているものである。
少々情報を付け加えて整理すると、①一色氏の家臣として弓木城を守備していた。②一色氏滅亡の後に細川忠興の家来となった。③忠興の妻ガラシャの自害の際に逃亡し、細川家を追われるが、徳川家康に助けられ、徳川一門に仕える。子孫は尾張藩士となったらしい。
「伊州太守」は、一夢斎の官名である「伊賀守」のことで、施主の「羽柴丹後守高知」は、当時宮津藩主だった京極高知である。一夢斎は駿府で亡くなったと伝わるが、宮津の殿様は地元ゆかりの人物を顕彰するため供養塔を建てたのだろう。
上記引用文中の(中略)には、一夢斎の鉄砲の神業が紹介されているが、次に紹介する話のほうが具体的で面白い。『天田・加佐・何鹿三郡人物誌』の「稲富直家」の項から引用する。これは一夢斎(直家)が細川忠興に仕えていた頃のことである。
忠興生来狩猟を好み、戦の余暇には銃を持ちて田野を駆け巡るを楽みとせり。されば直家はつねに従ひて猟せしが、獲物は常に忠興より少かりき。或時忠興は直家に向ひ、
獲る所の鳥獣、余は汝より多し、然るに汝は銃法を以て世に称せらる。名実これともなはざるに非ずや。
となじりしに直家答へて曰く
君侯は妙手にして微臣の企て及ぶ所に非ず。然れども臣に小技あり。願くば弾丸の痕を検せられよ。
と依って忠興之を熟視せるに直家の弾丸は皆肯綮に中れり。忠興は己が技の専ら鳥獣を斃すを主せるに反し、直家の銃法の精なるに感服せりといふ。
細川忠興は稲富直家を伴って狩りによく行った。直家は鉄砲の名人だが、獲物は忠興よりも少ない。不思議に思った忠興は「なんでや?」と訊いた。すると直家は「ちょっとした技でございまする。弾の痕をご確認くださいませ。」と答えた。獲物を見れば、すべてピタリと急所に命中していた。「仕留めることができたら、それでいんじゃね?」と考えていた忠興は、射撃の精度の高さに感服したという。
動いているものを正確に撃つ。今で言えば、クレー射撃の名手だろう。スキートという種目を動画で見ると、その凄さがよく分かる。有名な選手では、モントリオール五輪の麻生太郎という人がいる。第92代内閣総理大臣で、現在の副総理、財務大臣、金融担当大臣である。今は射撃よりも“口撃”を得意としている。
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