本ブログにも、たまには名作というのがあって、「最初の日本最後の仇討」はその一つである。日本人は仇討ちが大好きだ。基本的に勧善懲悪が好きなのだろう。悪い奴がやっつけられるとスカッとする。『痛快TVスカッとジャパン』を見る気持ちに通じる。
宮津市文珠に「岩見重太郎(いわみじゅうたろう)仇討ちの場」の石碑がある。
岩見重太郎は寡聞にして存じ上げなかったが、明治期の講談では、すこぶる有名なヒーローなのだそうだ。どんな人物なのか、まずは碑文を読んでみよう。
岩見重太郎は、講談などで有名な伝説上の剣豪で、江戸時代の初めごろに活躍したと伝えられる。
重太郎は、父の仇の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門を追って宮津にやってきたが、仇の三人は藩主京極家にかくまわれていた。やがて藩主の許可を得て、ここ天橋立の濃松の地で、三人を討ち取り本懐を遂げたという。
また重太郎には、毎夜、天橋立で通行人を襲っていた元伊勢籠神社の狛犬の足首を切りその夜行を止めたという伝説も残されている。
3人を討ち取ったというが、伝説の剣豪ならもっと派手な話題があってもよさそうだ。さらに読むと、化け物を退治している。しかし、神社の狛犬の足首を切ったようだが、おそらく昼間のことだろう。迫力不足は否めない。
少し南に「岩見重太郞試し斬りの石」がある。一円玉をうまくのせると、いいことがあるらしい。
スパッと見事に斬っている。やっぱり、さすがに伝説の剣豪だ。もっと詳しいことが知りたいので、樋口新六『日本剣客実伝』(晴光館書店、明治42)を読んだ。この本は「稍(やゝ)信を措くに足る歴史を拾捨したのが即ち此の伝である」というから、本当のことが書いてあるのだろう。
岩見重太郎は筑前名島の浪人、父の仇の広瀬・鳴尾・大川を追って宮津にやってきたが、仇の三人は宮津城主の中村一氏の家中となっていた。小早川侯の仇討免許状を持つ重太郎の願いは、「助太刀勝手次第」との条件で聞き届けられた。時は慶長17年(1612)9月20日、重太郎と三人の仇が向かい合った。仇の後ろには三百人の助太刀が控えている。勝負が始まり、重太郎が優勢となるや、仇側には四十数人が加勢してきた。重太郎危うし。と、その時、一人の男が躍り出て重太郎側に加勢し、助太刀する連中を蹴散らした。名は塙団右衛門(ばんだんえもん)。これにより重太郎は本懐を遂げることができた。のちの大坂の陣において、重太郎は母方の姓、薄田を名乗り、薄田隼人(すすきだはやと)として塙団右衛門とともに活躍した。
講談では中村一氏が宮津城主として語られるが、正しくは碑文のとおり京極家である。仇討の年は天正18年(1590)とされることもある。また、薄田兼相(かねすけ)と岩見重太郎を同一人物とみなすことはできないともいう。
直木賞に名を残す直木三十五は、『新作仇討全集』上巻(博文館文庫、昭和17)の「岩見重太郎」で次のように書いている。
僕等の小さい時分、重太郎兼相などといふ人は中々流行つて居たものである。天の橋立千人斬などと云つて、二千五百人の真中にたつた二人で斬込んで行くのであるから、いくら荒木又右衛門が強かつたつて、武蔵坊弁慶が大力だつたつて敵ふものでない。塚原卜伝といふのも可成り多数の中へ暴れ込むが、二千五百人の半分よりも大分少かつたと覚えてゐる。
余り強すぎたので流行らなくなつたのか、悟道軒圓玉なんかが「講談も合理的に申し上げませんと」とか、「どうも世の中が科学的になりまして」とか、と云ひながら粂平内を平気で書くやうになつたからか、とにかくせいぜい二三十人位の対手に止めておかぬと信用しなくなつたらしい。
昔はずいぶんと派手に語られていたようだ。平成の現在、戦国武将は人気だが、剣豪はそれほどでもなく、岩見重太郎は知る人もいない。彼には大蛇とか狒々(ヒヒ)を退治した話があるので、ドラゴンと戦うファンタジーのような作品にすると注目されるかもしれない。せめて薄田隼人として、大河ドラマ『真田丸』には登場してもらいたいものだ。
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