梶原景時は武家社会成立の恩人である。なぜなら、源頼朝が石橋山合戦に敗れて「ししどの窟(いわや)」に隠れた時、平家方の梶原景時に見つかったが、景時がわざと見逃したからだ。おかげで頼朝は起死回生を果たし、鎌倉幕府を創設していく。このエピソードは平成24年の大河「平清盛」第47回でも描かれた。
幕府において景時は、御家人統制の中心として活躍する。しかし有力御家人の反感も強く、頼朝死後の正治元年(1999)に鎌倉を追放され、翌年一族ともに討伐される。梶原氏を滅ぼした御家人の中心にいたのは三浦氏であった。
高砂市高砂町横町の十輪寺の墓地に「高砂城主梶原景秀公の墓碑」がある。
景秀公は「景」という通字で梶原景時の末裔だと分かる。いったい、いつ頃の武将だろうか。説明板を読んでみよう。
旧高砂城主 梶原景秀公の由来
梶原一族は桓武平氏の流れをくみ鎌倉幕府の創立に貢献した。その後水軍を率いて当地に来り文明元年(一四六九)頃、高砂城を構築。またこの地を基地として海外通商に雄飛し、東播地方に重きをなした。天正七年(一五七九)最後の城主梶原景秀公は、黒田官兵衛の仲介により羽柴秀吉に帰順した。またその子孫の一部は当地に留り、塩座役など勤めた。
高砂市観光協会
かろうじて生き延びた梶原氏の末裔は各地で活躍したようだが、高砂で活躍した一族は海に勢力を張っていた。景秀公は別所氏に属し、三木合戦の緒戦では秀吉方に奇襲をかけるなどして活躍、高砂城は毛利の援軍による食糧補給基地となった。これに対して秀吉はどうしたか。三木観光協会『探訪三木合戦』で読んでみよう。
秀吉は早速この高砂城を攻めたが、この城兵と毛利の援軍に挟まれ、惨敗して引き揚げたがこのときの戦いで、有名な牛頭天王社や相生の松が焼けてしまった。秀吉は大軍を編成して二回目の攻撃に出たが、そのとき高砂城主の梶原景行は、城が破損し勝算のないことを悟り、城兵を三木に送りこんで、自ら法被をまとい竜庵と名を変えて刀田山鶴林寺の林の中に蟄居して、この城を捨ててしまった。
ここに記されている景行は景秀公のことである。勝利は得られなかったが、時代の重要な局面で活躍し、今も地元から「公」と尊称されている。
「梶原景秀公の墓碑」の南側に「三浦一族の墓碑」がある。家紋は「丸に三つ引両」で、鎌倉御家人、三浦氏の紋である。なぜ播磨にやってきたのだろうか。説明板を読んでみよう。
三浦一族の墓
三浦一族は桓武平氏の流れをくみ鎌倉幕府創立に貢献した。以后長年にわたり三浦半島中心に栄えていたが、北條早雲に滅ぼされて永正十五年(一五一八)頃幼君義高公が当高砂に亡命した。(高砂城主梶原氏との縁故を頼ったと考えられる)その子孫は江戸期に入って代々「塩や甚兵衛」と名乗り大庄屋を務めるなど行政その他の面に多大の功績をのこした。また学問の家としても有名で一族の中より迀斉、度斉、松石等の学者を輩出した。
高砂市観光協会
三浦氏の末裔もまた各地で活躍した。このブログでは美作勝山を領した中世の国衆、先三浦氏と近世の勝山藩主、後三浦氏を紹介したことがある。
鎌倉幕府の権力基盤確立に貢献した三浦本宗家は、宝治元年(1247)に北条氏によって滅ぼされる。代わって本宗家となったのが相模三浦氏である。室町幕府のもとで相模守護職を得るなど、勢力を維持した相模三浦氏であったが、永正十三年(1516)に新興勢力の伊勢宗瑞、すなわち北条早雲に滅ぼされる。
気になるのは、その後である。永正十五年(1518)頃に高砂城主梶原氏との縁故を頼り、「幼君義高公」が高砂に亡命してきたという。相模三浦氏の最後の当主、三浦義意(よしおき)の遺児なのだろうか。そうすると三浦本宗家は高砂で続いたということなのだろうか。
梶原景時と三浦義澄、共に鎌倉幕府創立に貢献したが、御家人の主導権争いの中で、梶原氏が先に滅ぶ。しかし、高砂では梶原氏が三浦氏を助け、戦国の乱世を共に生きた。恩讐の彼方にヒューマニズムがあることを示しているかのようだ。