巨石を目の前にすると圧倒される気分になるが、それは神を崇拝する心に似ている。なぜ、この巨石がここにあるのか。科学的には風化かもしれないし崩落かもしれない。そんな偶然を私たちは奇跡と呼んで崇めるのである。
島根県邑智郡邑南町岩屋に「志都(しづ)の岩屋」がある。県指定の天然記念物及び名勝である。
写真は島根の名水に選定されている「志都の岩屋の薬清水」である。その右にある画面に入りきらない巨大な岩は、志都岩屋神社の御神体で「鏡岩」という。志都の岩屋景勝保存会のリーフレットには、次のように記されている。
御神体の鏡岩には、所々に小さな小穴があり、これに願いを込めて紙縒(こより)を結ぶと、願いが成就するといわれ、縁結びの神様としても有名です。また、鏡岩の岩間より湧き出る岩清水は、昔から万病によく効く薬清水といわれ、病気治癒祈願の参拝者も遠方から多くあります。
写真でも分かるが、確かに「こより」が結び付けられている。風雨に晒されながらも残っているのは、縁を結ぶ神様の力が強い証拠だろう。御祭神は大己貴命(オオナムチ)と少彦名命(スクナヒコナ)である。オオナムチは出雲大社の御祭神、大国主(おおくにぬし)と同じだから、縁結びの霊験あらたかなこと疑いなしだ。
二柱の御祭神と「志都の岩屋」については、古い歌に詠まれている。かの有名な『万葉集』巻三の歌番号355である。
大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経 (おほなむち すくなひこなの いましけむ しづのいはやは いくよへにけむ)
この歌について、リーフレットは次のように解説する。
万葉集に、生石村主真人(おほしのすぐりまびと)の歌があります。この歌は、大汝(おほなむち)の神と少彦名(すくなひこな)の神がおられた、この志都の岩屋は幾世(いくよ)経たことだろう。という意味で、神代の昔、地方開発と国土経営のため、中国山地の志都の岩屋に、二神がしばらく足を留められた処だと言い伝えられています。
つまり、ここは国づくりの拠点となっていたというのだ。確かに神社の背後に広がる巨石群を目の前にすると、大地の創造はかくの如し、と説明されているような気がする。
アドベンチャーコースのような散策路を上へと登れば、次のような奇観があるそうだ。近くを通ったのだが、気付かずじまいだった。
この酒は地元の玉櫻酒造の「志都の岩屋」ラベルで、「行場岩と岩割の松」が描かれている。生命力の凄さを見せつけられるようで、酒瓶を抱える私も強く生きなきゃ、と思う。
ところが調べを進めると、『万葉集』に詠まれた「志都乃石室」は本当にここなのかという疑問が生じてきた。候補地は3つある。まず紹介するのは、高砂市阿弥陀町生石(おおしこ)にある生石神社「石の宝殿」である。
この神社の御祭神はオオナムチとスクナヒコナであり、万葉歌の内容に合っている。国学者の荷田春満(かだのあずままろ)は、『万葉集童蒙抄』巻第五で「志都乃石室」を「石の宝殿」に比定している。
次に、大田市静間町にある市指定天然記念物「静之窟(しずのいわや)」である。ここは海食洞で「石室」の名にふさわしい空間がある。国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)は、『古史伝』十九巻で「志都乃石室」を「静之窟」に比定している。
そして、ここ「志都の岩屋」には、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)が注目しているのである。随筆『玉勝間』巻九「石見国なるしづの岩屋」で、次のように記述している。
石見国邑智郡岩屋村といふに、いと大きなる岩屋あり、里人しづ岩屋といふ、出雲備後のさかひに近きところにて、浜田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、浜田の主(うし)の領(しら)す地(ところ)なり、此岩屋、高さ卅五六間もある大岩屋也、又その近きほとりにも、大きなるちひさき岩屋あまた有、いにしへ大穴牟遅(おほなむぢ)少彦名二神の、かくれ給ひし岩屋也と、むかしより、里人語りつたへたり
ただし、あの万葉歌との関連については、作者の生石村主真人が石見国の役人で、現地を見て詠んだのなら分かるが、伝え聞いただけで詠んだとは思われない、と述べている。実際、真人が石見国の役人になったという記録はない。
真人が詠んだ石室(いわや)は、いったいどこにあるのか。国学者のように思いを巡らしながら岩場を巡れば、この風景を創造できるのは神しかいないと思えてくる。志都の岩屋には神が宿っている。これは信じていいことなんだよ。