インドへ自分探しの旅に出掛けるというが、本当に自分が見つかるのだろうか。見つかったとして、それは、どんな自分なのだろうか。そこまでして見つけねばならない自分とは何なのだろう。
そんなふうに考えを巡らせることで、自分探しは始まる。インドには自分探しができそうな奥深さがある気がする。具体的には説明できないが、古来日本人が抱いてきた天竺へのあこがれである。
高砂市高砂町横町の善立寺に「天竺徳兵衛(てんじくとくべえ)之墓」がある。右側の墓碑の「宗心」という法名が徳兵衛である。
私はかねてから、一つのifが気にかかっている。もし鎖国がなかったなら歴史はどうなっていたか、である。鎖国は18世紀末以降、我が国の「祖法」であると対外的に説明されてきた。
しかし、考えてみるがよい。神君家康公が鎖国を祖法と定めたのか。むしろ、朱印船貿易による海外進出を展開したのではなかったか。家康公を絶対視するならば、朱印船貿易こそ「祖法」とすべきではなかったのか。
朱印船貿易の時代、東南アジアに各地に日本町が築かれ、さかんに大型船が往来していた。そのまま貿易が続けられたならば、その後の日本は海洋国家として発展したかもしれないし、貿易立国は300年早く実現していたかもしれない。
もっとも海外進出にトラブルはつきものだから、貿易摩擦によって戦争に発展したかもしれない。いずれにしても、貿易の制限つまり鎖国政策の実施により、我が国の対外関係史は「動」から「静」へと大きく変化することとなった。
本日紹介する天竺徳兵衛は、朱印船貿易で活躍した高砂出身の商人である。詳しいことは説明板に教えてもらおう。
一、天竺徳兵衛は慶長十七年(一六一二)高砂町船頭町に生る。
一、寛永三年(一六二六)十月、十五才にて京都角倉與市(一)の御朱印船 船頭 前橋清兵衛の書役(書記)として長崎よりシャムに渡り、同五年八月に歸朝す。
一、寛永七年十一月、オランダ人「ヤンヨウス」の船に乗り再びシャムに渡り同九年八月長崎へ歸る。
一、徳兵衛は詳細なる見聞記を長崎奉行所に献じ大いに異国文化を傳達して国民の海外趣味を刺激し併せて郷土の名を高む。
一、帰国後、大阪上塩町に住み、盛大に外国商品店を営み、晩年剃髪して宗心と号し元禄八年(一六九五)八十四才にて歿す。
一、菩提寺 当七寶山善立寺に埋骨す。
高砂市 高砂市観光協会
京都の角倉與市(一)とは、朱印船貿易の豪商として知られる角倉了以(すみのくらりょうい)の子、素庵である。また、ヤンヨウスとは、1600年にリーフデ号でウィリアム・アダムズ(三浦按針)とともに日本にやってきたヤン・ヨーステンである。彼は幕府のもとで朱印船貿易を行った。こうした動的な国際社会で、天竺徳兵衛は活躍した。
徳兵衛の書いた見聞記は『天竺渡海物語』と呼ばれ、海外情報が少なくなった鎖国時代に好んで読まれたそうだ。これをもとに四世鶴屋南北が『天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)』という歌舞伎にして大当たりとなった。
試みに「天竺徳兵衛」を画像検索すると、巨大な蝦蟇(がま)に乗る徳兵衛が描かれた浮世絵や舞台写真を見ることができる。歌舞伎における徳兵衛は、もはや貿易商人ではなく妖術使いとなって日本転覆を狙っている。
舞台で徳兵衛が「南無さったるまぐんだりや守護聖天はらいそ/\」と呪文を唱える。ポルトガル語で天国のことを「パライソ」というが、当時禁制だったキリシタンを連想させる言葉を呪文に取り入れ、怪しさを醸し出している。
実像よりも虚像が大きくなった天竺徳兵衛。上記の説明文で徳兵衛が渡った場所はシャムとある。今のタイである。天竺、つまりインドではないのか。
調べを進めると、徳兵衛がインドへ行ったと書いている事典もあれば、中国の向こうは大ざっぱに「天竺」と呼ばれたから、東南アジア帰りの徳兵衛もそう呼ばれたと解説する書物もある。
いずれにしても「天竺」と呼ばれる場所に渡航したことは確かだろう。天竺で徳兵衛が探したものは買付け品だったとは思うが、意外に自分探しもしたかもしれない。その自分が歌舞伎で妖術使いにされていることを徳兵衛が知ったら、腰を抜かすほどびっくりするだろう。
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