日本を敗戦へと導いてしまった昭和天皇が戦後、後悔の念を吐露したのが張作霖爆殺事件であった。田島道治宮内庁長官の「拝謁記」によれば、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣の時ニ張作霖爆死を厳罰ニすればよかつたのだ。あの時ハ軍でも大して反対せず断じてやればきいたらうと思ふ」(昭和27年5月30日)と述べ、不徹底な処分が軍部を増長させ、満州事変以後の戦争拡大につながったと見ていた。
北京から奉天に戻る大元帥張作霖を、奉天近郊で列車もろとも爆破するという要人テロである。その事件の首謀者として知られる人物の顕彰碑があるというので訪ねてみた。
兵庫県佐用郡佐用町三日月の明光寺に「河本大作之碑」がある。揮毫は国鉄総裁を務めた十河信二、満鉄時代の友人である。昭和40年1月に河本大作顕彰会によって建てられた。
河本大作大佐といえば日本史教科書にも登場する関東軍の高級参謀である。副碑には河本の肖像レリーフと「赤い夕陽の満洲野が原に桜咲かしょとひとり旅」との刻字がある。満州に生涯をささげた河本自作の歌だという。裏面には次のような履歴が記されている。
明治十六年一月二十四日佐用郡三日月町三日月河本参二三男として生る。明治三十七年陸軍歩兵少尉。仝年日露役に従軍負傷。大正三年陸大卒。仝十五年関東軍参謀。昭和五年陸軍歩兵大佐。予備役に編入後満鉄理事満炭理事長山西産業社長。終戦后中共軍の進出にて戦犯となり太原収容所にて仝二十八年八月二十五日病没す。時年七十才。
張作霖爆殺テロは昭和三年(1928)六月四日のこと。これに対する処分が翌年七月一日付で発表され、村岡長太郎関東軍司令官を予備役編入、河本大作歩兵大佐を停職に、斎藤恒関東軍参謀長と水町竹三満洲独立守備隊司令官については重謹慎となった。
確かに処分は行われているものの、近年の財務省文書改竄や総務省接待問題における官僚処分のようで、真相究明による厳罰、再発防止にはほど遠い。その後の歴史を考えると、昭和天皇の悔やんでも悔やみきれない気持ちがよく分かる。
この事件では河本ひとりが悪者のように扱われているが、果たしてそうだろうか。「河本くん、すまんね。悪いようにはしないから。」と耳元で囁いた人物がいて、そのおかげで満州で要職を得たのではないか。河本自身も仕事を確実にやり遂げる信頼の厚い人物だったのだろう。関東軍が時間をかけて練った計画的犯行ではなかったかもしれないが、テロの黙認、追認も含め組織的犯行には違いない。軍部の意図はどこにあったのだろうか。
当時の我が国の至上命題は、満州での特殊権益を守ることである。そこで、満州から北京に進出していた張作霖と提携しようとしたが、軍部の思うようには動かず排日行為が止むことがなかった。そこへ蒋介石率いる北伐軍が北京に迫り、張作霖は満州へ退去することになった。
張作霖の奉天軍が満州へ引き揚げてくる。そうすれば満鉄沿線の治安の悪化は避けられない。関東軍は初め奉天軍の武装解除を考えていたが、政府の理解が得られなかったため、河本大作が中心となって張作霖殺害を計画することとなる。張を斃せば奉天軍の戦意は挫かれる、軍の衝突は避けられると考えたのだ。事件を契機に満州占領を目論んでいたのではない。
事実その後、大きな戦闘には至らなかったものの、中国人の反日感情を強く刺激したことは確かで、今に続く泥沼の日中関係の一因となっている。ただ、誤解を恐れずに言えば河本は満州、そして中国を好きだったのだと思う。満洲野が原に桜をさかせるために、中国を赤化から救うために、軍人として経営者として親中派として尽力した。一般に芳しい評価が与えられることの少ない人物だが、田中メモランダムを実行に移すような謀略者でないことは確かだ。