11月3日が「明治の日」という祝日になるという噂がある。この日は明治天皇の誕生日なので、かつては「天長節」、次に「明治節」といい、そして現在は「文化の日」として親しまれている。
平成30年(2018)が明治維新150周年となることから、これを機に「文化の日」を「明治の日」に改称しよう、というのである。私は休みの日が増えないのならどちらでもいいのだが、尊王論の系譜に連なる保守系論客にとっては意義あることのようだ。
その動きとは別に、政府は維新150周年に向けて、式典などの記念事業を検討しているという。全国各地で歴史上の出来事の何周年記念イベントが行われている。ずいぶん前だが、平成15年(2003)の江戸開府400年記念事業は東京都主導だった。東京という都市のルーツを考える上で、江戸幕府の成立は重要な画期だからだ。
同じように今の政府の源流を探ると、どこにたどり着くか。それが明治新政府なのである。封建制に代わる近代的な国家のしくみが整えられ、敗戦後の民主改革を経て現代に至っている。我が国にとり明治維新の意義は極めて大きいと言えよう。
明治維新は、慶応三年十二月九日(1868年1月3日)の「王政復古の大号令」に始まると考えていいが、幕府に代わる新政府を樹立する動きは、さらにさかのぼることができる。
五條市新町三丁目の史跡公園に「明治維新発祥地」の記念碑がある。明治維新100周年を記念して建てられた。
以前に「明治維新発祥の地」と題して、長州藩の内戦「大田・絵堂の戦い」を紹介した。長州藩が維新を主導したことを思えば、維新発祥の地が山口県内にあるのは納得だ。いっぽう奈良県五條市では、束の間の出来事だったが、幕府権力に代わる新政府が樹立された。世に言う「天誅組の変」である。
時は文久三年(1863)。長州藩は、関門海峡で外国船を砲撃し「攘夷」を実行しただけでなく、天皇自ら兵を指揮して攘夷を行う「攘夷親征」を朝廷に建議し、8月13日、大和行幸の詔が発せられた。これは孝明天皇が神武天皇陵・春日大社に参拝して攘夷を祈願するものである。これに応えて志士が参集すれば、そのまま討幕軍となることも想定していた。
翌14日、皇軍の御先鋒をつかまつるとして、吉村寅太郎、松本奎堂ら約40名が、公卿の中山忠光を主将として京都方広寺を出発した。淀川を船で下って大阪湾に出て、堺港で上陸したのは16日である。その後、一行は今の大阪狭山市、富田林市の方面に向かった。
河内長野市三日市町に「本陣油屋跡」がある。ここは西高野街道の三日市宿として賑わっていた。
天誅組一行が油屋に着いたのは17日未明であった。門のようなモニュメントに刻まれた説明文には、こう記されている。
彼らはここで休憩し、この間に態勢を整えた。当時、当主の油屋庄兵衛は三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配など、彼らの世話をしたと語り伝えられている。
一行が宿を発ったのは同日朝である。そして向かったのが…。
河内長野市寺元の観心寺に「楠木正成首塚」がある。湊川の戦いで戦死した正成の首は、楠木氏の菩提寺である観心寺に葬られた。
この地で吉村、松本と並んで総裁となる藤本鉄石が合流した。忠臣の中の忠臣、大楠公の首塚に参拝して大願成就を祈念し、忠臣をもって自ら任じている天誅組一行の士気は、いやがうえにも高まった。勢いづいた一行は、千早峠で金剛山を越えて目的地、五條代官所に向かうのである。
五條市本町一丁目の五條市役所は「五條代官所跡」である。攘夷親征を強力に援護するため、行幸先の奥に広がる天領を押さえようとしたのだ。
17日夕方、代官所に押し入った天誅組は、代官・鈴木源内に所轄の天領を引き渡すよう要求した。突然の出来事に驚いた代官がこれを拒否するや、武力で代官所を制圧した。代官以下数名を殺害し、その首を掲げて本陣とする桜井寺へと向かった。
五條市須恵一丁目の桜井寺(さくらいじ)に「天誅組本陣跡」の石柱がある。明治百年を記念して建てられた。
桜井寺に本陣を構えるとともに、代官所から武器や書類を運び出させ、建物を焼き払った。17日の真夜中のことである。
桜井寺の境内に「首洗いの石手水鉢」がある。討ち取った代官・鈴木源内の首をここで洗った。手水鉢そのものは貞享三年(1686)寄進という古いものだ。
首は村はずれに晒され、捨札には罪状が次のように記されていた。『会津藩庁記録 文久三年 第二』より
代官 鈴木源内
長谷川岱助
黒澤儀助
木村祐次郎
恒川庄二郎
此者共近来違勅之幕府之逆意を受ケ専ら有志之者を押附朝廷幕府を同様ニ心得僅三百年之恩儀を申触開闢以来之大恩を忘れしめ然も此ケ為ニ皇国を辱しめ夷狄の助と成候事も不弁且聚斂筋も不少罪科重大依之加誅戮者なり
この者どもは最近、天皇の命に従わぬ幕府の意向により憂国の志士を弾圧し、朝廷と幕府を同じように見なし、わずか300年ほどの徳川の恩義を押し付けるいっぽう、日本始まって以来の皇室の御恩を忘れさせようとしている。このために皇国の名誉が傷つき、野蛮な外国を利することになっているのが分かっていない。なおかつ、税も重い。こうしたことから処刑したのである。
翌18日の朝、桜井寺の山門に「皇軍先鋒」と「御政府」とそれぞれ書かれた二つの看板が掲げられた。五條代官所の支配地を天皇の直轄地とし、その秋の年貢を半減することとした。まさに新政府、天皇を奉戴する政府が誕生した。明治維新の源流はここにある。
ところが、その18日、公武合体派の会津藩と薩摩藩が中心となって、尊攘派の公家と長州藩を朝廷から追放するクーデターを起こした。「八月十八日の政変」である。大和行幸はなくなった。
天誅組がこのことを知ったのは、この日の夜遅くだった。19日に軍議を開き、解散か徹底抗戦か意見は割れたが徹底抗戦に決した。翌朝には桜井寺を離れ、十津川方面に転進していった。五條御政府が機能したのは、実質的に18日一日限りだった。
その後、天誅組は吉野郡の山中を転戦したが、9月下旬に壊滅していく。明治の御代までに、あと5年の歳月が必要だった。
五條市本町一丁目の極楽寺霊園に「五條代官所役人墓所」がある。
中央が代官・鈴木源内の墓、左右に並ぶのは部下の墓である。鈴木代官は、皇室をないがしろにしたと天誅組から糾弾されたのだが、実際どうだったのか。説明板を読んでみよう。
鈴木源内の墓
鈴木源内は十三代目の五條代官で、天誅組の変当時は六十歳ぐらいの温厚善良な人柄だったといわれる。長寿の老人を表彰するなどして領民からよく慕われた代官だったが、文久三年(一八六三)天誅組によって殺害された。後に地元の人たちによって、五人の部下とともにここに祀られた。
そうだろう。気の毒な代官は、天誅組によって幕府打倒の象徴とされてしまったのだ。地元の人たちによる丁寧な供養に、救われる思いがする。
明治維新の魁と位置付けられる天誅組。150周年を迎える輝かしい維新の黎明期には、理不尽な暴力も垣間見える。「一将功成りて万骨枯る」という警句があるが、顕彰される志士の功績の陰に、多くの犠牲者があったことを忘れてはならない。
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