倒幕に燃えた浪士を志士と呼ぶかテロリストと呼ぶかは紙一重の差でしかない。維新前の混乱期に多くの志士が非命に倒れた。その中には明治後半から大正期に贈位された者もいる。因循姑息な幕府を倒し新たな世を築くのに貢献したという理由からだ。
確かに近代国家の基礎を築いた明治新政府の大改革は我が国の誇りである。しかし、幕府に反抗した志士の誰もが近代国家への夢を抱いていたわけではないだろう。抱いていた志は「尊王攘夷」、天皇を敬い外国人を打ち払うという偏狭なナショナリズムである。外国人受け入れに懸念を示す天皇を幕府がないがしろにすることに対して、鉄槌を下そうとしていたのだ。
美作市土居に「土居四つ塚勤皇烈士顕彰碑」がある。
この碑は「勤皇烈士」を顕彰しているという。どのような人物なのか、裏面の碑文を読んでみよう。
この東南約十メートルに土居宿駅の西関門があった。元治二年二月、王政復古に奔走中の高知藩士井原応輔と島浪間、岡山藩士岡元太郎はその門外で、高知藩士千屋金策はこの東二百メートルの旅宿泉屋で自刃した。
贈正五位四烈士の遺徳を讃してこれを建てる。
建立四烈士顕彰有志 昭和四十四年十月
四名の勤皇烈士を顕彰しており、うち三名はこの場で亡くなったことが分かる。のちに正五位を贈られているから、倒幕に何らかの貢献があったのだろう。どうやら事の発端は、元治元年(1864)に勤王の雄藩長州藩が禁門の変に敗れ、征長軍が広島に入った頃のことである。長州藩を頼みとする志士たちの間に次のような話が持ち上がった。田中光顕『維新風雲回顧録』より
「このまゝで袖手傍観(しゅうしゅぼうかん)すると、結句、長州は非戦論者の天下となり、年来、毛利父子が提唱して来た勤王の大義は、声をひそめることになるのみならず、吾々も亦、捕へられて再び国元へ護送されるやうな運命とならねばならぬ。進むも死、退くも亦死、どうせ、一命を抛出(なげだ)すなら、いっそ、由井正雪の故智に倣ひ、これから幸、将軍家茂は浪華城に居るので、大阪へ乗り出し、城へ火をかけようではないか、幕軍が狼狽してゐる隙に乗じ、天下の同志を糾合して大阪をさわがせたら、長州征伐どころではあるまい。」
席上、此ういふ奇策が成り立った。
「愉快だ、やッつけろ」と本多も、同意した。
此時、席にゐたものは、本多の外に、大橋慎三、井原応輔、千屋金作、島浪間、それと私の六人丈であった。
本多とは武者小路家の本多大内蔵、京の情勢に詳しかった。大橋慎三、井原応輔、千屋金策、島浪間、そして私こと田中光顕は土佐藩士、土佐勤王党の志を継ごうとする志士たちであった。島浪間は天誅組の変に参加し、五條代官所の鈴木源内の首をはねた男であった。
彼らは身を寄せていた長州を出て、大坂に潜入し機会をうかがっていた。しかし、かくも大それたことであれば、僅かな人員で成し遂げることはできない。そこで、井原、島、千屋の三名で山陰道へ遊説に向かったのである。
三人は元治元年の暮を雪の伯耆で過ごし、空けて二年の春に作州に入った。正月八日には大坂でぜんざい屋事件、大坂城焼討計画を察知した新撰組がアジトを急襲、大利鼎吉という若者が亡くなるということがあった。
作州の三人が剣術指南をしながら状況をうかがっていると、そこへ岡山藩の岡元太郎が合流してきた。岡は足利三代木像梟首事件に関与した尊攘志士である。梟首事件は考えてみれば不気味な脅迫で、文化財保護の観点からも問題だ。同志が増えたのはよかったが、四人は運命の二月二十一日を迎える。その前に街道筋の史跡を見ておこう。
土居宿の中ほどに「泉屋跡(勤王志士ゆかりの旅籠)」という表示がある。
土佐藩の千屋金策が自刃したのはここだ。辞世は次のとおり。
夷らを斬りつくさんと思ふのみわが起き臥しの願ひなりしに
金策の思いは、まさに攘夷。攘夷を実行しようとせず、攘夷の叡慮をないがしろにする幕府は討滅するほかなかったのだ。とりあえず、街道をさらに西へと進もう。
宿場町のはずれに土居小学校があり、その向こうに「四つ塚」がある。
手前から岡元太郎、井原応輔、千屋金策、島浪間の墓である。いずれも「贈正五位」と維新への貢献が評価されている。近くに説明板があり、彼らの悲劇も詳細に記されているので読んでみよう。
四つ塚(維新の四士の墓)
元岡山藩の岡元太郎と、土佐藩の井原応輔・島浪間・千屋金策の四人は文久三年(一八六三)から翌年の元治二年にかけて、作州路を遊説し、尊王派の同志を募っていた。途中、活動資金に困り、柵原町百々の酒造業・池上文左衛門を訪ねて、融資を頼んだ。ところが「返しててくれるあてもない金など貸すものか」とののしられ、四人はたえかねて怒った。強盗と間違えた使用人が半鐘を鳴らしたためたちまち猟銃や農具を手にした村人たちがとりまき、逃げる四人をさらに追う。土居まで約二〇キロ途中竹槍で突いてきたのでしかたなく斬った。土居の西関門まで来て「刀をあずかる」という門番の熊七も斬りすてた。もう逃れる道もないとさとった四人は西関門わきの松の根にすわりこみ、岡は切腹し井原と島は刺し違えた。千屋だけは宿場へ入り、自分たちの汚名を晴らそうとしたがそれもかなわず、旅宿の泉屋で自刃した。その後、遺書などにより真相が明らかにされ、門尻河原に埋められて、四ツ塚さまと呼ばれるようになった。維新の大業が完成された明治三十一年に正五位が贈られ、墓所も地元の人々によってこの地に改葬され、盛大な慰霊祭が行われた。
作東町文化財保護委員会
一点誤りがあるのは「文久三年(一八六三)」で、これは「元治元年(一八六四)」が正しい。要は活動資金調達のために地域の富豪に融資を依頼したことが事件の発端だ。当時、倒幕運動に理解のある豪農は各地にいた。彼らは滞在していた慈教院の住職の紹介で百々(どうどう)の池上家を訪ねた。ここは井原が若い者に剣術指南をしたこともあって、理解が得られるだろうと踏んでいた。
説明板では池上氏のつっけんどんな態度が目につくが、実際にはどっちもどっちだったのではあるまいか。金を借りる者はあくまでも平身低頭でなくてはならず、貸してくれる見込みがないなら早々に退去すべきだったろう。キレてしまったばかりに騒ぎが大きくなり、人まで斬ってしまった。特に門番の熊七を殺害したことは取り返しのつかぬことで、志士たちはついに自ら死を選ぶことになった。
彼らにはどのような国家貢献があったのだろうか。大坂城焼討を計画し、遊説先の地方でトラブルを起こして自滅してしまった。テロリストは民衆を敵に回してはならない。権力者を慌てさせ、その隙に民衆が蜂起することで、革命への道が開けるのだ。民衆は自らの生活を脅かす者に容赦なく、門番は宿場の安寧を維持するために怪しげな者には厳しい態度をとる。いくら大志を抱いていようと関係ないのだ。
攘夷を主張する四名の志士が非命に倒れてから、ほんの数年後に幕府は滅亡する。彼らの悲願は果たされたというべきか。幕府に代わった明治新政府は、破約攘夷の主張はどこへやら、お雇い外国人のご指導のもと近代化を推し進めるのである。すっかり近代国家となった明治三十一年、政府は志半ばにして倒れた四名を顕彰して正五位を贈った。攘夷を倒幕の手段としたことに対する、せめてもの罪滅ぼしだったのだろうか。
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