Microsoft Wordに負けじと、一太郎は頑張っている。その表や線の快適な操作性は一太郎の得意とするところで、熱烈な愛好者も多く存在する。今年は「一太郎2014徹(てつ)」が発売され、文書が職人技のように美しく表現できると評判である。
本日は平成日本のソフトウェア開発の雄である一太郎ではなく、戦前日本の愛国美談「一太郎やあい」を紹介する。
香川県仲多度郡多度津町本通1丁目の柳原菓子店では「一太郎ヤーイせんべい」が売られている。
素朴で美味しいせんべいには、老母が海に向かって「一太郎ヤーイ」と叫んでいる様子が焼かれている。包装紙にはその像が描かれている。
このせんべいは人々に美味を味わわせてくれるだけでなく、近代日本について考えるきっかけを提供してくれる。戦争に庶民がどのように参加したのか。兵士を送り出す家庭に何が期待されていたのか。母が子を思う気持ちは時代によって変化するのか。お母さんの像を見ながら考えてみよう。
多度津町の桃陵(とうりょう)公園に「一太郎やぁい」の像がある。ブロンズに見えるがコンクリート製である。昭和18年10月の建立である。作者は神原象峰、地元の彫刻家である。
実はこの像は二代目である。初代の像は織田朱越(大久保甚之丞像が有名)作で、昭和6年6月に御大典記念事業で桃陵公園が開園した際に建立された。ところが、戦時中に金属回収で供出されてしまった。
さて、お母さん像が見ているのはこのような風景である。港近くの建物の壁面に「一太郎やーあい」とある。母目線に台詞まで用意してくれて完璧なシチュエーションである。
なんだかすごい像だな、ということだけは伝わったことと思う。いったい、このお母さんはどれほど偉大なのか。老母像の背後に顕彰文を刻んだ石碑がある。読んでみよう。
明治三十七八年戦役ハ皇国興廃ノ岐ルル所ニシテ殉難
奉公ノ気概国内ニ横溢セリ当時旅順攻囲ニ参加セル丸
亀聯隊ノ出征御用船ノ当港解纜ニ際シ埠頭ニ馳ケツケ
タル一老婆一太郎ヤアイ鉄砲ヲアゲロ家ノ事ハ心配ス
ルナ 天子様ニ克ク御奉公スルダヨト叫ンデ其愛子ヲ
激励シタル事実ハ全国民ノ意気ヲ鼓舞シ出征美談トシ
テ国定教科書ニ載録セラレタリ此ノ母子コソハ本県三
豊郡豊田村岡田かめ女ト其一子梶太郎ナレド一度大阪
朝日新聞に報ゼラルルヤ忠愛ノ情ニ燃ユル我国民性ハ
翕然トシテ母子ノ礼讃トナリ演劇ニ映画ニ浪曲ニ琵琶
歌講談等ニ依ツテ精神教化ノ資ニ供セラル 大正十一
年本県ニ於ケル特別大演習ニ際シテハ畏クモ 高貴ノ
御馬前ニ謁ヲ賜ヒ更ニ昭和六年宮城参殿ヲ許サルル等
幾多ノ光栄ニ浴セルノミナラズ日本婦人ノ典型トシテ
海内ニ喧伝歎美セラルルニ至レリ 斯ノ如ク有事ニ際
シテ欣然最高ノ犠牲ヲ君国ニ捧グル報国ノ精神ハ平時
ニ在ツテ更ニ讃仰スベク之ヲ永久ニ顕揚セシガ為メ全
国小学校児童及篤志家ノ賛助ニ依リ縁故深キ此地ニ教
科書ノ全文ヲ掲グルト共ニ其ノ姿影ヲ鋳造シ奉公記念
標トシテ建設シタルモノナリ 小野高介撰白川大吉書
日露戦争は近代日本が西洋列強と伍するために立ち上がった乾坤一擲の大一番であった。明治37年8月28日、旅順攻囲戦の兵員を丸亀歩兵第十二連隊から補充するするため、軍用船土佐丸が多度津に寄港した。
この時、我が子に一目会おうと夜を徹して駆けつけた母がいた。そして、船を見つけると「一太郎ヤアイ鉄砲ヲアゲロ家ノ事ハ心配スルナ、天子様ニ克ク御奉公スルダヨ」と叫んで激励した。このエピソードは愛国美談として、大正7年からの国定教科書「尋常小学国語読本」に掲載され、全国民に浸透することとなった。
この母と子とは、現在の香川県観音寺市豊田地区に住む岡田かめ女史とその子梶太郎氏であった。このことについて大阪朝日新聞が報じると、忠愛の情に厚い我が国民に、岡田母子の顕彰ブームが巻き起こった。映画や浪曲、講談となって愛国精神はますます高まったのである。
大正11年11月の摂政宮行啓による陸軍特別大演習に際して拝謁を賜り、昭和6年には宮中参内を許される光栄に浴した。まさに、日本婦人のロールモデルとして称賛されたのである。
このように、御国の大事に進んで命をささげる報国の精神は平時にこそ尊ぶべきである。そこで、全国の小学生や篤志家の賛助により、ゆかりの深い多度津に母の姿を鋳造し、教科書「一太郎やあい」の全文を掲げて母子の御奉公を顕彰することとする。
以上、石碑の撰文を意訳し補足して説明した。台座の銘板は「一太郎やあい」だが、敗戦前は「奉公記念標」で、その上部に陸軍の星章があった。同じく以前は「一太郎やあい」の全文も掲げられていたが今はない。そこで、昔の教科書を開いて内容を確認しておこう。
『尋常小学校国語読本』巻七
第十三 一太郎やあい
日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
「ごめんなさい。/\。」
といひ/\、見送人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあらうか、腰に小さなふろしきづつみをむすびつけてゐる。御用船を見つけると、
「一太郎やあい。其の船に乗つてゐるなら、鉄砲を上げろ。」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。おばあさんは又さけんだ。
「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかつたらもう一度鉄砲を上げろ。」
すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれ/\。」といって、其所へすわった。聞けば今朝から五里の山道を、わらぢがけで急いで来たのださうだ。郡長をはじめ、見送の人々はみんな泣いたといふことである。
4年生が習う題材だから、登場人物の心情が読み取りやすい。「天子様によく御ほうこうするだよ」という忠義心と「五里の山道をわらぢがけで急いで来た」という我が子への思い。母の呼びかけに鉄砲を上げて応える息子。見送った後に疲れて座り込む母。情景も目に浮かぶようだ。確かに心が動かされる作品である。
母は老いの身ながら遠路を駆けつけた。我が子を思う一般的な庶民の姿である。その老母が天皇への忠義を表明する。これに息子が武器で応える。男子が戦争に身を捧げることは忠義心の体現である。そして「家のことは心配するな」、銃後の守りは女性の役割であった。
まさに軍国日本が期待した母子像と言えよう。国民皆兵の思想、ここに極まれり、である。こうした精神は、同じ日露戦争で与謝野晶子が弟に詠った「君死にたまふことなかれ」のリアリズムとは正反対であった。
国語の読み物だから内容が事実である必要はないが、実際の場面は物語と少々異なっているようだ。昭和52年6月の多度津町文化財保護協会会報第20号に、当時をご存じだった方の回想録が掲載されている。
それによると、お母さんは「梶ヤーン」と我が子梶太郎の名前を繰り返し叫び、息子は手を差し上げて左右に大きく振って応えたという。また、お母さんは嘉永5年(1852)生まれだから、日露戦争当時は52歳くらいであった。「年は六十四五」ではない。
梶太郎が一太郎とされた経緯は、小野高介『教育資料一太郎やぁい』によれば、次のとおりだ。
多度津港埠頭に於ける母かめ女の叫び声梶太郎やぁいをかづ太郎やぁいと聞き誤り後教科書編纂に際しかづ太郎のかづの字に一の字を用ゐて一太郎と書きし…
教科書に掲載されるくらいだから、どなたか権威ある筋の方が情報の発信源に違いない。同じく『教育資料一太郎やぁい』によれば、現場に居合わせた香川県の小野田元熈知事と桑原八司部長であった。桑原はこの美談を琵琶歌に作り普及させたという。
後に東京高等師範学校の佐々木吉三郎教授が研修講師として香川に来県した際に、この美談が耳に入ったようだ。佐々木が美談を含め文部省に復命したことで、教科書に採録されることとなったらしい。
物語は事実に端を発したとしても、人々が期待するようにドラマ仕立てに成長していく。今生の別れとなるやもしれぬ船出の時である。母は叫び、子が応えた。一組の別れが、人から人へと伝わっていく過程で美談に昇華していったのだろう。
いや、本当に教科書のとおりだったのかもしれない。今となっては分からないが、時代に必要とされた母子であった。
観音寺市池之尻町の心光院に岡田かめさんとその子一太郎こと梶太郎氏の墓がある。
かめさんは長生きされ昭和9年に83歳で亡くなった。墓碑には巌谷小波の「雲井まで届きし雁の叫びかな」という句が刻まれている。巌谷小波先生は昭和6年の銅像除幕式に列席して母の行為を讃えている。
梶太郎氏もまた長命を得て昭和37年に80歳で亡くなった。「母カメニ対シテハコノ上ナク孝養ノ限リヲツクシタ人情ノアツイ人柄デアツタ」と墓碑に刻まれている。