昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』第14話で、別所哲也演じる山中鹿介(やまなかしかのすけ)が、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈る有名なシーンを見ることができた。
このシーンが有名なのは、昭和12年発行の第四期国定教科書『小学国語読本 巻九』に「三日月の影」というタイトルで採録されたからである。原文を読んでみよう。
甚次郎の目は、何時の間にか涙で光ってゐた。
甚次郎は、此の日から山中鹿介幸盛(しかのすけゆきもり)と名乗り、心にかたく主家を興すことをちかつた。
さうして、山の端にかゝる三日月を仰いでは、
「願はくは、我に七難八苦を与へ給ヘ」
と祈った。
事情を知らねば、なぜこんなにも自虐的なのかと、いぶかしく思うだろう。甚次郎は母から頼まれたのである。「御主君尼子家の御恩を忘れまいぞ。…一日も早く毛利を討って、御威光を昔に返しておくれ。」
母の思いを胸に、甚次郎改め山中鹿介幸盛は、出雲を中心に山陰の雄であった尼子家の再興を誓い、どのような苦難をも引き受けようと決意したのである。
鹿介の様々な苦難のうち、最も知られているのが天正五年(1577)から翌年にかけての上月合戦である。この時、上月城は織田氏と毛利氏による勢力争いの最前線であった。
赤松七条家(毛利方)の守る上月城は、羽柴秀吉の猛攻により、天正五年12月3日に落城、その後、山中幸盛(織田方)が上月城に入り尼子勝久を守将とする。
12月8日、勝久は出雲の熊野神社の所領にたいする安堵状を発給する。だが、考えれば分かるが、今やっと北播磨の上月城に入ったばかりの尼子氏が、どうして出雲の安全保障が出来ようか。この安堵状は尼子氏復興のビジョンを示したものにすぎない。
翌天正六年(1578)になって播磨の情勢は急変する。三木城の別所氏が織田方を離れ、毛利方に転じたのである。これに合わせて毛利氏は上月城の奪回を目指す。
秀吉は上月城に援軍を送るものの、主君信長の命により三木城攻囲戦に軍勢を転じる。孤立無援となった上月城で尼子勝久は7月3日に切腹し、5日開城することとなる。鹿介幸盛は6日、籠城の諸氏に感状を発した後、10日に備中松山(今の高梁市)に連行され、17日に阿井(あい)の渡しにて暗殺されるのである。
確実な資料によって上月合戦を概観すると以上のような展開となる。ところが、近世の軍記物では物語化が進んで脚色され具体的になっていく。『播州佐用軍記』によれば、天正五年12月に上月城が落城した際の城主は赤松政範という。
『備前軍記』によれば、落城後に尼子勢が入城したものの、間もなく宇喜多軍の真壁彦九郎が城を奪回する。翌六年正月末に尼子勢が再入城、2月上旬には宇喜多勢が再び奪回し、上月十郎が城主となる。3月上旬に羽柴秀吉により再び攻略され、尼子勢が三度目の入城を果たす。
『軍師官兵衛』では、『黒田家譜』に従って上月城主を上月景貞としていた。演じたのは土平ドンペイさん、存在感抜群の俳優である。
ただし、一次史料では上月十郎あるいは上月景貞の存在を確認することができないため、天正五年12月から翌年7月までは尼子勢が入城していたと考えるのが妥当であろう。
高梁市落合町阿部(おちあいちょうあべ)に市指定史跡の「山中鹿介の墓」がある。
ここは成羽川が高梁川と合流する場所で「阿井(あい)の渡し」があった。落合(おちあい)という地名が川の合流地点を意味している。『備前軍記』には、上月城落城が述べられた後に、次のように記されている。
鹿之助は作州路を経て芸州に赴くとて、備中国河部川阿井の渡にて、天野紀伊守が臣河村新左衛門・福間彦右衛門が為に討れにけり。年三十九歳なりとす。今其墓阿井の渡にありて名は千載に残りける。
『備前軍記』の成立は安永三年(1774)である。この時すでに墓があったことが分かるが、いつ建てられたのだろうか。環境省・岡山県の説明板を読んでみよう。
山中鹿介は天文14年(1545)現在の島根県に生まれ、尼子氏に仕えて数々の武勲をたて尼子十勇士のひとりに数えられました。「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという故事は有名で、尼子氏滅亡の危機に播州上月城に拠って再興を志しましたが、毛利勢に攻められ、ついに落城しました。鹿介は捕らえられ、備中松山城へ護送される途中、ここ阿井の渡場で不意打ちにあい惨殺されました。現在の墓碑は正徳3年(1713)松山藩石川侯の家臣前田時棟が建てたものです。
墓碑が建立された正徳三年当時の備中松山藩主は石川総慶(ふさよし)で、石川氏は移封により一代限りだった。この藩は藩政初期の水谷氏によるインフラ整備と、幕末の板倉氏による佐幕が有名だが、石川氏も前田時棟(ときむね)のおかげで、短い治世ながらも存在感を現代に示すことができた。
ずいぶんと大きな墓のように見えるが、高さ1mほどの基礎部分は明治16年に築かれたもので、前田時棟による墓碑は石碑と2段の台石である。
正面に「山中鹿之介墓」、右側に「正徳第三龍集癸巳十月建」、裏面に「尼子十勇 儕輩絶倫 不得伸志 無遭于時 忠肝義膽 爰樹爰封 殊勲偉績 千載流芳 前田時棟 謹銘」とある。
尼子十勇士のうちでも、なみはずれた技量をもっていたが、願いがかなわず時の運にも恵まれなかった。忠義一徹の心で、各地で尼子氏の拠点を築くなど、優れた手柄をあげ偉大な功績を残した。その名は千年の後までも芳しく伝わるだろう。
前田による顕彰文は、おそらくこんな意味だろう。「千載流芳」は『備前軍記』が記していることと同義である。また、「正徳第三龍集癸巳」とは格調高い表現だが、普通に言えば正徳三年である。
前田が墓碑を建てる前には、鹿介の討死の場所に、目印として榎(えのき)が植えられていた。これが洪水で流されたため、墓碑の建立となったわけだ。したがって、ここに鹿介が埋葬されているのではない。遺骸が葬られているのは少し離れた場所である。
高梁市落合町阿部に「山中鹿介胴墓」がある。「幸盛院殿鹿山中的大居士」という法名が刻まれている。裏面には「明治三十五年八月建立」とある。当初の法名は「幸盛院鹿山中的居士」で、後世に院殿大居士に格上げされたらしい。
説明板に立派な墓碑が建立された事情が記されている。
その首は、輝元のいる松山の本陣に送られ、遺骸は観泉寺珊牛(さんぎゅう)和尚の手により、赤羽根の「石田畑」に葬られていたものを、遺骨を再度掘り出し布片に包み瓶(かめ)に収めて埋葬し、墓碑を建立(こんりゅう)したものであります。
この当時、備中松山城は毛利氏の前線基地となっていた。当主の毛利輝元が鹿介の首を実検した後、首は備後鞆の浦に送られた。
福山市鞆町後地(ともちょううしろじ)に「山中鹿之助首塚」がある。こちらは自然石を使っている。
天正六年当時、京を追われた15代将軍足利義昭が鞆の浦で復権をうかがっていた。鹿介の首が鞆の浦に運ばれたのは、義昭による首実検に供するためであった。反毛利の急先鋒だった武将の首を見て、義昭はさぞかし喜んだことだろう。京に帰還する日も近いと確信したことだろう。
この時点では足利義昭は確かに勝者に間違いない。しかし、歴史とは厳しいもので、近世から近代にかけて山中鹿介幸盛の評価はどんどんと高まり、義昭とは比べものにならないほどになる。
情熱の漢詩人、頼山陽は次のように詠んだ。題は「山中幸盛」である。
存孤杵臼何忘趙
乞救包胥暫託秦
嶽嶽驍名誰喚鹿
虎狼世界見麒麟
孤を存せんとする杵臼(しょきゅう)、何ぞ趙(ちょう)を忘れんや
救を乞う包胥(ほうしょ)、暫(しばら)く秦(しん)に託す
嶽嶽(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰か鹿と喚(よ)ぶ
虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る
古代中国、晋の杵臼は命に代えてまでも、楚の包胥は恥をしのんでまでも主君を守った。我が国の忠臣、山中鹿介は武勇で名高いが、どうして鹿などと呼べようか。トラやオオカミのうろつく戦国の世に生きた麒麟(きりん)なのである。
キリンではなく麒麟である。伝説の瑞獣なのである。それほどに優れた人物だと頼山陽は讃えた。鹿介が「山陰の麒麟児」の異名をとるのは、この漢詩によるものだ。
鹿介と三日月の取り合わせは江戸時代からのようだが、決めゼリフの「願はくは、我に七難八苦を与へ給ヘ」が登場するのは明治になってからだという。したがって、冒頭の『軍師官兵衛』のシーンは史実の再現ではなく、長い歳月を経て練り上げられた鹿介のイメージなのであった。
鹿介の生涯をたどってみれば、それは苦難の連続である。七難八苦を自ら願ったとしても不思議ではない人生であった。困苦の中にあっても忠義を忘れぬ。現代日本人が忘れ去ってしまった価値観を思い起こさせてくれる麒麟児。それが山中鹿介である。