いい人の定義は難しくて、「彼、いい人よ」と言われても、本当に良いのか、どうでもいいのか分からない。なるべくなら、感じのいい人でありたいものだが、しぐさや会話で御里が知れてしまうのがオチだ。
さて本題に入ろう。土御門上皇は、とてもいい人だったのである。血筋だけではない。人としていいのである。自分さえよければなどと決して思わない、心優しく家族思いな上皇様なのである。
鳴門市大麻町池谷の阿波神社の脇に「土御門天皇火葬塚」がある。宮内庁管理の陵墓である。以前に「土御門上皇弑逆事件」を紹介したが、これは伝説である。寛喜三年(1231)10月11日崩御。享年三十七。実際には病没であろう。
土御門上皇の父君は後鳥羽上皇で、鎌倉幕府を倒そうとした承久の変の首謀者である。首謀者とは聞こえが悪いが、それだけの行動力があったということだ。だからと言って、決して力任せに事を運ぼうとする御方ではなく、和歌に優れた当代一流の文化人である。
ただ、朝廷と幕府の動員力の差はあまりにも大きかった。幕府は19万騎で朝廷を圧倒し、後鳥羽上皇を隠岐へ、後鳥羽の子順徳上皇を佐渡へと流す。順徳の子仲恭天皇を廃帝とする。中近世の朝幕関係の在り方を決定付けた果断な処置であった。
朝廷内が主戦論のタカ派で固まっていたわけではない。後鳥羽の子で順徳の兄である土御門上皇は、穏かな御性格だったためか、冷静に状況判断ができたためか、非戦論のハト派であった。戦いには関係しなかったため、戦後処理では不問に付された。
しかし、京に残ったものの良心の呵責を感じた上皇は、自ら申し出て離京を決意する。初め土佐に流され、後に阿波へと遷る。『増鏡』「第二新島守」には、次のように記されている。
中院(なかのいん)は初めより知ろしめさぬ事なれば、東(あづま)にもとがめ申さねど、父の院、遙かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐れありと思されて、御心(みこころ)もて、その年閏(うるう)十月十日、土佐の国の畑といふ所にわたらせ給ひぬ。
土御門上皇は最初から関わりがなかったので、幕府はおとがめしなかったが、父の後鳥羽上皇がはるか隠岐に流されたので、自分だけのんきに都暮らしをするのは誠に恐れ多いと、自らのお考えで、承久三年(1221)閏10月10日に、土佐国の幡多という所にお移りになった。
四万十市蕨岡甲(わらびおかこう)の高良(こうら)神社に「土御門上皇(天皇)蕨岡御所伝承地」との石碑がある。四万十市中村の「奥御前(おくごぜん)神社」が行在所の跡であるともいう。一年半ほどして、少しでも京との通交がしやすい場所にとの配慮で、阿波に遷座することとなった。その途中で名月を眺めた場所が、香南市香我美町岸本の高知県立月見山子どもの森にある「土御門上皇仙跡碑」である。
上皇は貞応二年(1223)5月27日に阿波に遷られたというが、その行在所は諸説ある。有名なのは阿波市土成町吉田字御所屋敷の一の「土御門上皇行宮跡」で阿波市指定史跡である。板野郡板野町下庄(しのもしょう)字栖養(すがい)の「松木殿」は板野町指定史跡である。鳴門市里浦町里浦字坂田の「あま塚」は「天塚」なら土御門上皇、「蜑塚(海士塚)」なら男狭磯(おさし)、「尼塚」なら清少納言の墓と言われている。鳴門市大麻町池谷の「天王山」のふもとに「土御門天皇陵」があると藩撰地誌『阿波志』巻之三板野郡の陵墓の項に記されている。先述の火葬塚のことである。
板野郡藍住町勝瑞(しょうずい)字西勝地(にしかつち)に「南陽神社」がある。
『藍住歴史かるた』に「土御門 上皇迎えた 南陽台」があり、その解説書に次のように記されている。
藍住町に残る伝承としては、勝間が淵に遊ばれた上皇は、菊花を愛され、「南陽の丘」と呼ばれた南陽神社付近に南陽離宮を造営したとされる。
諸説ある上皇行在所のうち、この勝瑞説を補強しているのが、藤原定家の日記『明月記』の記述である。
嘉禄三年閏三月十五日条
兵船卅艘許寄阿波、已以合戦、守護代臨陣親自合、雖攻寄御所前、戦士館西遂引還了
同月二十七日条
去十五日夜海人為釣魚、漁火多見、存敵向来由、又以馳走、其後軍兵守護御所、往反人不通
承久の変における朝廷方の残党が30艘ばかりの兵船で、上皇を奪い去るため阿波に攻め寄せてきたが、幕府方の守護代小笠原長経が自ら迎え撃った。御所の前に攻め寄せてきたが、守護所の近くで戦い、これを退けた。
15日夜には漁師が漁火を焚いているのを敵が向かってきたものと思い走り回ることとなった。その後、軍兵は御所をお守りし往来する人を通さなかった。
実際には戦いがなかったのだが、重要な情報が含まれている。上皇の御所は比較的海に近い場所で、守護所も同じ場所にあったことを示唆しているのだ。
小笠原氏の設けた守護所は現在の「勝瑞城跡」と考えられ、確かに海に近いと言える。南陽神社も勝瑞城に近接している。ということは、南陽神社付近に「南陽離宮」は実在したということになる。南陽離宮とはリゾート地にあってもよさそうな名称だが、上皇が都を偲びつつ暮らした仮の住まいだったのである。
承久の変の戦後処理で皇位は、後鳥羽上皇家を離れる。後鳥羽の甥が即位し後堀河天皇となり、次いでその子が四条天皇となる。しかし、仁治三年(1242)に12歳で崩御、急遽、皇嗣を選定することとなった。
皇位は再び後鳥羽家に戻ることとなった。まず候補に挙がったのが岩倉宮忠成王(いわくらのみやただなりおう)である。これに幕府は難色を示す。なぜなら主戦派の順徳上皇の子だからである。
対して幕府が推したのが、非戦派の土御門上皇の子、邦仁王である。王は即位して後嵯峨天皇となり、土御門上皇の子孫が皇位を継承して現在に至るのである。このことについて、南北朝期の史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』は次のように指摘している。
中ノ院、是ハ時至ラヌ事也、悪キ御計哉ト随分諌為申給ケレドモ不叶。
中院ハ此事御同心ナクテ諌メ為申給ヒケレバトテ都ニ留メ申ケルヲ、一院角成セ給フ上ハ、一人可留ナラズト仰ラレテ、閏十月十日阿波国へ為下給ヒケリ。忝キ御事也。如此賢王ニテ御座シケレバニヤ、此御末ノ後ニハ御位ニ御座シケル。
土御門上皇は「今はその時期ではございません。よくないお考えです」と随分とお諫めになったが叶わなかった。
土御門上皇は倒幕に同調せずお諫めまでしたので都に留まることとなったが、「父が流罪となったからには一人留まるわけにはいかない」とおっしゃって、閏10月10日に阿波国に下られた。畏れ多いことである。このような立派な帝であらせられたためか、御子孫は皇位についていらっしゃる。
以上のように「賢王」と高い評価を与えられた土御門上皇は、中世の人も現代の人も誰が見ても、真の意味で「いい人」だったのである。
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