先月27日、訪米中の安倍首相は、ワシントン近郊のアーリントン国立墓地を訪れ、無名戦士の墓に献花した。今月9日、ロシアの対独戦勝70周年式典において、習近平国家主席はプーチン大統領とともに、モスクワの無名戦士の墓にカーネーションを供えた。
我が国ではどうだろうか。一昨年の10月3日に、アメリカのケリー国務長官とヘーゲル国防長官は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で献花をおこなった。要人が外国を訪れた際に、戦没者追悼施設で献花するのは、その国に対する敬意の表明である。
アメリカの要人が靖国神社ではなく千鳥ヶ淵で献花したのは、周辺国と歴史認識を共有できず、戦没者追悼の在り方さえ定まらぬ我が国に対する問題提起であった。はっきり言えば靖国神社は適当でないというメッセージである。
人間の歴史は戦争の歴史と言っても過言ではないくらい数多くの戦争があった。多くの人が志半ばにして戦場に倒れた。敵味方を問わずその御霊(みたま)に謝罪して弔い平和を誓うのは、後世を生きる者の務めである。戦後70年の首相談話が新たないさかいの種になるようでは、我が国の将来は心もとない。
徳島県板野郡藍住町勝瑞(東勝地ひがしかつち)の龍青山見性寺の境内に「勝瑞義冢碑(しょうずいぎちょうひ)」がある。藍住町指定有形文化財である。国際問題からいきなりローカルな話題に飛んだ感じがするが、脈絡がないわけではない。
義冢(ぎちょう)とは一般に義塚と書き、弔う縁者のない人の墓、つまり無名戦士の墓を意味する。この勝瑞義冢碑は、天明三年(1783)に勝瑞村の庄屋、岩佐谷助(いわさやすけ)が建てたもので、撰文は徳島藩儒の那波魯堂(なわろどう)である。
那波魯堂は播磨姫路の人で、聖護院宮忠誉法親王の侍読を務めた後、安永7年(1778)に阿波藩主蜂須賀治昭に招聘され、寛政元(1789)年に徳島で病没した。
石柱の三面にはびっしりと文字が刻まれている。名文だと聞いたが読み取ることができない。そこで調べてみると、藍住町教育委員会『藍住歴史かるた解説書』に概要が記されていた。読んでみよう。
碑には、まずこの地方の水害による堤防工事にあたって多くの遺骨が発掘されたことが記されている。次に勝瑞城に拠る細川・三好両氏の抗争と興亡や天下の形勢について、また長宗我部氏の侵攻と勝瑞の壊滅について記し、遺骨の出る原因について述べている。そして、最後に無縁仏の供養のために墓を築造したことと、そのことによる霊験に期待することが記されている。
ちなみに、かるたの句は「落城の 哀感伝える 義冢の碑」である。「落城」とあるが、地図で堀が確認できることから分かるように、この地は「勝瑞城趾(しょうずいじょうあと)」である。国指定史跡「勝瑞城館跡」の一部となっている。
勝瑞城は15世紀中頃以来、細川氏の守護所であり、阿波の政治・文化の中心として栄えた。戦国の世となると、細川氏の被官であった三好氏が主家をしのぐようになった。京では三好長慶が、阿波ではその弟の実休(じっきゅう)が実権を握った。実休が阿波守護細川持隆を殺害したのが天文22年(1553)である。
見性寺の門柱には「西国守護三好長治公一族菩提所」とある。三好長治は実休の子で、父の死後に家督を継いだ。西国守護とは少々大げさだが、三好政権の西方の要だったことは確かだ。
戦国大名三好氏は「新加制式」という分国法を制定している。三好氏の家宰篠原長房が作成し、三好長治が発布した。しかし後に長治は、篠原長房を滅ぼし、主家の阿波守護細川真之とも対立し、天正5年(1577)に戦いに敗れ自害した。
その後は長治の弟の存保(まさやす)が勝瑞城に入ったが、長宗我部氏の侵攻に耐えきれず、天正10年(1582)に落城した。
そして約200年後、当時の戦死者の遺骨が堤防工事中に発掘されたため、これを弔って建立したのが勝瑞義冢碑である。覇権を争った細川氏も長宗我部氏も、そして三好氏もすでに歴史の彼方へ去り、蜂須賀氏の治政となっていた。
死して後に子孫に弔ってもらえるなら幸せである。戦場に倒れ、誰も知らぬまま骨も拾われぬままに朽ち果てていくのは、あまりにも悲しい。明日をも知れぬ人生である。無名戦士を弔うのは、やはり生きる者の務めである。
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