歴史は様々に語り伝えられて伝説を生み、それが史実を覆い隠してしまうことがある。ややこしいが面白いところでもある。ローカルな人物ならまだしも、今日紹介するのは土御門上皇である。一国の帝王の事績なら正確に伝わってよさそうなものだが、そうではなさそうだ。
阿波市土成町宮川内字上畑の御所神社に「土御門上皇御終焉傳説地」の石碑がある。御所神社は土御門上皇を祭神とする。
川のせせらぎ、たらいうどんと焼鳥のおいしい店があり、心身ともに気持ちよい場所にある。しかし、この地で土御門上皇が弑逆されたという。まずは『土成町史』上巻に紹介されている二つの文書の紹介である。
帝王略記
寛喜三年十一月、北条の臣七条・坂東討手として御所に馳行ふ。守護の士防戦の内、帝王細尾より宮川内谷深く奉忍御運拙く思召、勿体なくも十二日辰時御覚悟被為遊而、御年三十七にて崩御す。御陵御所の南辺十五日寅時奉葬。
阿波日記
承久三癸巳年、北条泰時土佐国へ流す。旛多郡蕨岡に在給う。御年二十七歳の時なり。貞応二年阿波原田村に移り在す。其後帝阿波に遷都せし事鎌倉へ聞え討手の大将北条遠江守朝時、坂東板西の武士百二十二騎先陣七条孫太夫賢忠原田村へ押し寄せ、帝守護の侍と相戦、帝は宮河内深く落行御生害あり、北面の侍二人間野右近、宇野左近峠にて自害す。此地ウノタヲと云う。
承久の乱の責めを負って後鳥羽上皇が隠岐へ、順徳上皇が佐渡へ配流となった時、乱に関わらなかった土御門上皇は自らの意で配流の途についた。初め土佐に、ついで阿波に遷り、そこで亡くなったというのが通説だ。温和な上皇に幕府が討手を差し向けるはずはないと『土成町史』は主張する。では、なぜこのような伝説が生じたのか。これにも『土成町史』は答えている。
この上皇が自害せられたことは、隣接した柿原の藤原師光の四子広永が田口成良に襲われ、広永は敗れて宮川内谷に逃れて自殺した。この戦と混同したとの説〈徳島県史第一巻第三編第八章)は多くの史家が認めるところである。
おそらくそれが正しい。それにしても、上皇が阿波に遷座したため、怒った幕府が討手を差し向け、上皇を自害に追い込んだ、というのもすごい話である。話に尾鰭がついていくのは今も昔も変わらない。
ただ、「自害」は民話で生き続けている。徳島新聞社webサイト掲載の連載「阿波の民話」から引用しよう。
【803】うのた峠 阿波市
とんと昔、あったと。
宮川内谷(みやごうちだに)辺りには土御門上皇の話が多い。
間野右近(まのうこん)、宇野左近(うのさこん)も都から上皇について流れてきた侍じゃった。二人は上皇が自害した後、阿讃の国境まで逃げてきたが、討っ手が迫ってきたんで、ここで自害して果てた。
在所のもんは哀れに思うて、二人の墓を建ててやった。ほれから、この峠を二人の苗字から「うのま峠」ちゅうようになった。ほれが、いつの間にか「うのた峠」となってしもうた。
上皇が敵に攻めたてられたとき、上皇をお守りした侍に五名三郎(ごみょうさぶろう)がおった。戦でけがをして宮川内谷の谷下の百姓の納屋へ隠れた。ほれを六兵衛が見とった。討っ手におどされたんで、しょうことなしに五名三郎の隠れ場所を教えてしもうた。
三郎が殺されるとき
「六兵衛の家は末代まで栄えささん」
ちゅうて、恨みの言葉を残したそうな。谷の下には「五名さん」って呼ばれる石塚がある。
おーしまい。
◆注釈
【ほれ】それ 【ちゅう】という 【しもうた】しまった 【しょうことなしに】仕方なく
これが阿讃国境の鵜峠(うのたお)とか鵜の田尾峠(うのたおとうげ)という峠の由来である。今は鵜の田尾トンネルで快適に国境越えができる。ドライブすればたらいうどんののぼりが気にかかるが、阿波院、土御門上皇を偲ぶのもよいだろう。
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