この秋に滋賀県立安土城考古博物館で足利義昭展があった。織田信長に追放された最後の室町将軍として知られたVIPだが、その割にはスポットが当てられなかった。今回の展覧会は義昭の生涯を詳しく紹介しており、たいへん見ごたえがあった。
宇治市槇島町薗場に「此の附近槇島城跡」という丁寧な表現の石碑(昭和50年建立)がある。現況は城跡のイメージにはほど遠く、ふつうの住宅街である。
将軍としてリーダーシップを発揮したい義昭は信長と対立を深め、元亀4年(1573)7月3日に槇島城に拠って信長に対抗する。この動きに信長はただちに反応して京の制圧後、7月16日に槇島城を囲む。
今、槇島城跡に立つと、立てこもるなどできないように感じるが、当時は宇治川の中洲に浮かぶ要害であった。しかし7月18日には落城、義昭は追放される。『信長公記』巻6(角川文庫版)の一節である。
公方様、城槨においては是に過ぎたる御構へこれなしと思食され、御動座候といへども、今は詮なく御手前の御一戦に取結候。今度させる御不足も御座なきの処、程なく御恩を忘れられ御敵なされ候の間、爰にて御腹めさせ候はんずれ共、天命おそろしく御行衛思食儘(ゆくへおぼしめすまゝ)にあるべからず。御命を助け流しまいらせられ候て、先々にて人の褒貶(ほうへん)にのせ申さるべき由候て、若公(わかぎみ)様をば止め置かれ、怨(アタ)をば恩を以て報ぜらるゝの由候て、河内国若江の城迄羽柴筑前守秀吉御警固にて送り届けらる。誠に日比(ひごろ)は輿車美々敷御粧(こしくるまびびしきおんよそほひ)の御成り、歴々の御上﨟達歩立赤足(かちだちはだし)にて取物(とるもの)も取敢えず御退座。一年(ひとゝせ)御入洛の砌は信長公供奉なされ、誠に草木も靡くばかりの御威勢にて、甍を並べ前後を囲み、御果報(くわほう)いみじき公方様哉と諸人敬ひ候キ。此度は引替へ御鎧の袖をぬらさせられ、貧報公方と上下指をさし嘲哢(てうろう)をなし、御自滅と申しながら哀なる有様目もあてられず。
やがて槇島城の資材は、伏見城の築城や宇治川の築堤に使われてしまったようだ。遺構をとどめないこの城の石碑はもう一つある。
上記の石柱より少し北にある槇島公園〈槇島町北内〉に「槇島城記念碑」〈平成16年建立〉がある。
京から追われ槇島城から若江城へ、さらには堺、紀伊、鞆へと転々としつつも復権の機会をうかがっていた義昭。依然として征夷大将軍として動いていた。室町将軍が流浪することなど何度もあったのだ。義昭の場合、将軍としての実権を回復する機会が巡ってこなかっただけである。安土での足利義昭展もそのような趣旨だったように思う。槇島城は、依然として15代将軍の座にあった武将の終わりの始まりの地であった。
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