古城が草に覆われているのを見ると、兵どもが夢の跡、と口にしてしまう。城主には主君を守り抜く使命感があったかもしれない。覇権を確立する野望があったかもしれない。その思いは決してロマンではなかった。ギリギリの思いで生き抜こうとしていたはずだ。しかし、どうだろう。武将も城も時の流れとともに歴史となり、夢の跡として語られるようになるのだ。
大阪府泉南郡岬町深日に「深日駅跡」がある。城跡とはまったく関係ないのだが、線路沿いに残るこのプラットホームで多くの人が電車に乗り降りしたのだ。様々な思いを抱きながら。それは野望とは程遠い小さな幸せだったと思うが、思いの詰まった場所という意味においては、城跡も駅跡も何ら変わらないのだ。
やや強引に廃駅を史跡化しようとしているのだが、深日の町からいささか離れたこの場所に「深日駅」ができた理由を調べるのは価値があろう。明治31年に南海本線が開通した時に深日駅も開業した。当寺の前後の駅は、大阪側が箱作駅、和歌山側が和歌山北口駅(現紀ノ川駅)であった。岬ライオンズクラブ『みさき風土記』を読んでみよう。
旧深日駅の創設について一つのエピソードが残されている。当初鉄道が敷設されるとき、出来るだけ民家から遠いところを走るよう南海当局に働きかけたという。その結果、線路は村からはるか東の山麓を通すこととなった。また駅舎についても、できるだけ遠くの場所に設定した。というのは、村の中心地を電車が通り駅も近いと、若い者たちが和歌山市などへ出かけることが多くなり、遊びをおぼえてよくないという村人たちの配慮からで、その後何十年かの間、深日・多奈川の人たちは旧深日駅までの遠い道のりを歩いて行く結果となったのである。
和歌山市行きの電車が通り過ぎた。村人の配慮は若者の健全育成に功を奏したのだろうか。この駅が使われたのは昭和19年までだった。多奈川線が開通し深日町駅が開設されたことで、旅客営業が取り止められた。
緑の中に美しい煉瓦造りの建物が見える。先ほどの深日駅跡のすぐ近くにある「深日変電所」である。明治44年の鉄道電化時に建設された。今も南海電鉄の所有で同じ敷地内に変電設備が置かれている。
この変電所のおかげで、この地域に電灯がともり始めたのだという。今の私たちは煉瓦造にレトロなイメージを持つが、夜が明るくなったことに驚いた人々は、近代化の象徴と捉えただろう。南海線に乗っていれば瞬く間に過ぎてしまうこの場所にも、人々の思いが集まっていたのだ。
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