古城に立つと「兵どもが夢のあと」の句が思い浮かぶ。多くの死者が出た凄惨な殺戮の場であったはずだが、芭蕉の時代にしてすでに浪漫と化している。まして今や戦国武将の追った夢を追体験しようと、多くの人々が古城を訪れている。
兵庫県佐用郡佐用町上月の上月城跡に「赤松蔵人大輔政範君之碑」がある。赤松政範とともに城を守った武将の遺臣の子孫によって、江戸後期の文政年間に建てられた。
この碑には漢文で次のように記されている。浜田洋『改訂増補佐用の史跡と伝説』から読み下し文を引用しよう。
君は赤松円心七世の孫なり。天正五年の役、一万三千騎に将として太平山に拠り、豊臣氏を防ぐ、吾が師利あらず、十二月十八日、同じくその弟正直、叔父高島正澄、早瀬正義、同じく横山義祐、大谷義房など戦死す。今文政九年丙戌を距たる実に二百五十年なり。城塁荒廃し精魂依る所なし、子孫の民間にかくれて播、備、作三州に在るもの悲憤に堪えず、金を拠し石を建てて聊か報本の意を表すいう。 大谷義房九世之孫 義章謹識
12月18日の落城は『播州佐用軍記』という江戸期の軍記物を典拠にしているためだが、実際には12月3日だそうだ。それどころか、上月町発行の『上月合戦~織田と毛利の争奪戦~』では次のような指摘がある。
上月城主としては赤松七条家とされる政元・政範の名前が伝わっていますが、いずれも当時の人々が記した史料にはその名が見えず、実在を裏付けることはできません。
とすると、赤松政範及び天正5年の合戦は架空だったのか。いや、そうではない。合戦があったことは、天正5年12月5日の羽柴秀吉書状(下村文書)によって明らかである。上記『上月合戦』から引用しよう。
合戦場より引返し、七条城弥取詰、水之手取候付、色々詫言候へ共、不能承引、かえりしヽかき三重ゆいまわし、諸口よりしより申付、去三日乗入、悉刎首、其上已来敵方ミこりと存知女子共二百余人、備・作・播州三个国之堺目ニ、子ともをハくしニさし、女をハはた物ニかけならへ置候事
子供は串刺しに、女は磔にされた。秀吉による虐殺が行われた合戦だったのだ。こうしたなで切りは信長が行ったイメージが強いが、秀吉や家康も行っている。そんな時代だったのだろう。また、落城日が12月3日だという根拠もこの書状にある。さらに、城の名を「七条城」としているが、城主の名は記されていない。では、なぜ赤松氏が城主とされているのか。
赤松氏諸流の中でも赤松円心の長男・範資に始まる流れは七条家と呼ばれた。本来なら本家筋ではあるが、宗家の格は弟筋に移っていた。その七条家がこの上月城を守備していたので「七条城」と呼んだものらしい。ただ城主の名が政範かどうかは分らない。政範が登場するのは江戸期の軍記物『播州佐用軍記』からで、その系譜もあいまいだが、一応、七条家の当主とされている。
たとえ架空の人物であっても、こうして古碑が存在すると実在したように感じる。人々がそう信じたならば実在するのだ。確かなのは、この上月城が秀吉による虐殺の戦場であり、赤松七条家の終焉の場所であることだ。有名な山中鹿之助が登場する直前の出来事であった。
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