名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)は出雲阿国の夫で、共に歌舞伎の祖とされるが、どこまでが史実か分からない。ご先祖さまは名越(なごえ)流北条氏だという。名越流の祖は『鎌倉殿の13人』で次郎と呼ばれた朝時(ともとき、西本たける演)である。本日は名越流最後の当主の最期の話をしよう。
兵庫県佐用郡佐用町円応寺に「円応寺宝篋印塔」がある。居住まいを正すが如く端正なフォルムである。
この美しすぎる宝篋印塔は『太平記』に登場する武士の墓である。その名は佐用範家。一族の領袖、赤松則村に従って討幕に貢献したという。説明板を読んでみよう。
円応寺宝篋印塔(えんのうじほうきょういんとう)
[県指定文化財]
円応寺宝篋印塔は、赤松一族の佐用三郎兵庫介範家(さようさぶろうひょうごのすけのりいえ)の墓と伝えられ、中世動乱の中で建武の中興に大きな貢献をもたらした業績に見合った立派なものである。
この塔の高さは、約2メートルあり、郡内一の大きさを誇る。南北朝時代の特徴をよく表しており、 昭和47年(1972)、県指定文化財となった。塔身は、後に新しくつくられたものである。
所在地 佐用郡佐用町円応寺135-1
「建武の中興に大きな貢献をもたらした」という。具体的な内容を知るには、古い説明板を読むとよいだろう。
重要文化財 円応寺宝篋印塔
元弘三年(一三三三)四月の末久我畷の一戦に、鎌倉方の総大総名越尾張守高家を、ただ一矢で討ち取って、建武の中興を決定的なものにした、赤松方の部将佐用三郎兵庫介範家の墓と伝えられている。
室町時代初期に作られた代表的な宝篋印塔としてその名が高く県の重要文化財に指定されている。
建武中興の立役者だと絶賛されている。さらに具体的な様子は『太平記』を読むのがよいだろう。巻第九「山崎攻事付久我畷合戦事」の一節である。時は元弘三年(1333)、隠岐を脱出した後醍醐帝は閏2月28日に伯耆船上山で挙兵。幕府は北条一門の名越高家と有力御家人足利高氏を討伐に向かわせた。大手の山陽道からは高家が、搦手の山陰道から高氏が伯耆に進軍する予定だった。
ところが、高家の行く手を阻んだのが赤松則村である。京南部の久我(こが)から天下の要衝山崎へと伸びる道を久我畷(こがなわて)と呼んだが、ここで両軍は激突したのだ。4月27日のことである。
尾張守は元より気早の若武者なれば、今度の合戦人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物具笠符に至まで、辺を耀かして被出立たり。花曇子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく著下して、白星の五枚冑の吹返に、日光月光の二天子を、金と銀とにて彫透して打たるを、猪頸に著成し、当家累代の重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを、筈高に負成、黄瓦毛の馬の太く逞に、三本傘を金貝に磨たる鞍を置、厚総の鞦の燃立計なるを懸、朝日の影に耀して、光渡て見えたるが、動ば軍勢より先に進出て、傍を払て被懸ければ、馬物具の体、軍立の様、今日の大手の大将は是なんめりと、知ぬ敵は無りけり。されば敵も、自余の葉武者共には目を不懸、此に開き合せ彼に攻合て、是一人を討んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者なれば、近付敵を切て落す。其勢参然たるに辟易して、官軍数万の士卒、已に開き靡ぬとぞ見えたりける。爰に赤松の一族に、佐用左衛門三郎範家とて、強弓の矢継早、野伏戦に心きゝて、卓宣公が秘せし所を、我物に得たる兵あり。態物具を解で、歩立の射手に成、畔を伝ひ、薮を潜て、とある畔の陰にぬはれ伏、大将に近付て、一矢ねらはんとぞ待たりける。尾張守は三方の敵追まくり、鬼丸に著たる血を笠符にて推拭ひ、扇開使うて、思ふ事もなげに控へたる処を、範家近々とねらひ寄て、引つめて丁と射る。其矢思ふ矢坪を不違、尾張守が冑の真額のはづれ、眉間の真中に当て、脳を砕骨を破て、頸の骨のはづれへ、矢さき白く射出したりける間、さしもの猛将なれ共、此矢一筋に弱て、馬より真倒にどうと落、範家胡簶を叩て、矢呼を成し、寄手の大将名越尾張守をば、範家が唯一矢に射殺したるぞ。続けや人々と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。
引用文の前半は、名越高家の威風堂々とした武者姿を描写している。菊池寛『形』に登場する中村新兵衛のように、その姿を見て敵が怯むくらいの威勢だった。その高家に目立たぬ格好で近付き、一矢で見事に討ち果たしたのが、本日の主人公佐用範家である。
高家討死を知った足利高氏は29日、丹波篠村八幡宮で討幕に転じ、「敵は六波羅にあり」と京に攻め入った。幕府軍の大将二人のうち、一人は討死し、もう一人には裏切られる。鎌倉陥落の5月22日までひと月もない。
こうしてみると、鎌倉幕府の瓦解、それに続く建武の中興は、久我畷に始まったと言えるだろう。範家の一矢が時代を動かしたのである。