全国第4位の巨大墳、造山古墳の前方部にある石棺は、馬門石(まかどいし)とよばれる阿蘇溶結凝灰岩である。九州からのお取り寄せなのか、吉備の首長の権力の大きさを物語るものと言えよう。この岩には阿蘇ピンク石という、分かりやすいが、ちと軽い呼び名もある。
ただし、吉備地方にある他の古墳では、もっと近い場所で石材を調達している。多くは石の宝殿で知られる播磨の竜山石(ハイアロクラスタイト)だが、5例のみ備中の浪形石(貝殻石灰岩)である。本日はその一つを訪ねることにしよう。
総社市秦に金子石塔塚(かなごせきとうつか)古墳がある。
私はこの古墳の前で大変ありがたいものをいただいた。『“秦の里”史跡由緒集』である。先客の方に「珍しい石棺があると聞いたので」などと話したところ、「それほどお好きなら、これ差し上げます」という次第。ここに記して、厚く御礼申し上げます。
その冊子と古墳前の説明板はほぼ同じ内容である。ここでは説明板を読むことにしよう。
金子石塔塚古墳由緒
金子石塔塚古墳は、当地総社市秦奥場の、奥場古墳群の一角にあり、奥場2号墳とも呼ばれている。この古墳の形態は円墳で、築造時期は古墳時代後期(六世紀後半)と考えられる。
岡山理科大学により発掘調査が行われており、墳丘は南北二六メートル、東西二〇メートルの楕円形を呈し、高さは山側で約三メートル、平地側で約五メートルである。
埋葬施設は南東に開口した全長十一・六メートルの片袖型横穴式石室で、玄室は長さ五・五メートル、幅一・九メートル、高さ二・四メートルである。
石棺は家の形をしており、材質は井原市浪形で産出する貝殻石灰岩(浪形石)である。
この古墳からは、須恵器、土師器、耳環、玉類、馬具、刀、鉄鏃、金銅製亀甲文板等(飾履、もしくはの中に金を施した冠の一部)が副葬品として出ていることから相当地位の高い人が葬られていたと思われる。
付近に存在する金子古墳群(十七基)を併せると秦には六十基程の古墳が存在しており、その数の多さと誰が祀られているのか、吉備の古代史解明の上で大きな謎とロマンになっている。
平成二十七年一月
秦歴史遺産保存協議会
浪形石製の石棺は金子石塔塚、こうもり塚、江崎、王墓山、牟佐大塚だけで、築造年代も同時期だが、このうち金子石塔塚だけが文化財指定されていない。「相当地位の高い人が葬られていた」にしては、この扱いでよいのか心配になる。
金子石塔塚、こうもり塚、江崎の総社グループに近接して箭田大塚があるが、この巨石墳に浪形石が使われていないのはなぜだろうか。三大巨石墳のうちこうもり塚と牟佐大塚が浪形石だから、ライバル心むき出しで「俺は絶対使わねえ」と意地を張ったのだろうか。山を隔てて南北に位置する箭田大塚と金子石塔塚。両者の関係が知りたい。
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