現在お寺の数は7万7000くらいあるそうだ。今では当たり前のようにあるお寺だが、日本史上初の調査では46ヶ寺だったという。調査は聖徳太子の没後すぐに行われたから、聖徳太子四十六ヶ寺と呼ばれている。『日本書紀』巻第廿二推古天皇三十二年(624)九月三日条には、次のように記されている。
秋九月甲戌朔丙子、寺及び僧尼を挍(かむが)へて、具(つぶさ)に其の寺の所造(つく)らるゝ縁(ことのもと)、亦僧尼の入道(おこなふ)の縁、及び度(いへで)せる年月日を録(しる)さしむ。是の時に当りて、寺四十六所、僧八百十六人、尼五百六十九人、并せて一千三百八十五人有り。
現代に比べると尼僧の割合が高いように思えるが、どうだろうか。そして、どのような人が出家したのだろうか。さらに、46のお寺はどこにあったのだろうか。
総社市秦(はだ)に県史跡「秦廃寺」がある。塔心礎があり、この上には五重塔が建てられていたらしい。
このあたりは『和名抄』記載の秦原郷であり、早くから開けていた地域である。秦は渡来人とのゆかりを想像させるが、文献上の根拠は見つからないそうだ。川の端(はた)にあることが由来と考える説もある。まずは説明板を読んでみよう。
岡山県指定重要文化財
秦廃寺(秦原廃寺)
昭和三十四年三月二十七日指定
古代、日本に伝来された仏教は、聖徳太子の出現によりその興隆期を迎え、大化の改新を経て、聖武朝にその最盛期を迎えた奈良仏教へと発展していきます。
この秦廃寺は、現在、不動の心礎及び礎石は各一をとどめるにすぎませんが、出土する瓦等から、飛鳥時代に創建された岡山県内最古の寺院跡とされています。
当時の寺域、伽藍配置等については明確ではありませんが、寺域は、東西一町、南北一町又は一町半と想定されます。また、伽藍配置については、寺域の南限、かつて桂根一を出土した付近に南門、その北東の塔心礎の位置するところに塔、その西側に金堂、それらの北側に講堂跡が存在したものと考えられています。
ここから出土する軒丸瓦は、二種類が確認されていて、その一種類が、岡山県内で最古の飛鳥様式の八葉単弁の蓮華文の瓦で、もう一種類は、吉備式と呼ばれるものであります。
昭和五十七年三月 総社市教育委員会
とにかく古く、この地方では最古のお寺である。岡山県のみならず中四国最古とも言われている。それゆえに『吉備郡史』は、次のように記している。
秦原寺は秦村字寺藪に在り。是実に聖徳太子の建立に係る寺四十六所の一なり。是実に、和名鈔「備中国下道郡秦原郷」に相当するものなれば姑らく秦原寺と命名せり、秦原郷に在る寺の意なり。
而してこの秦原寺が聖徳太子建立四十六寺の一たるの根拠は、其の礎石、心礎の形式手法、特に古瓦の形式文様また建物配置のプランが法隆寺否其の金堂、宝塔の位置が左右相反対せる点に於て、法起寺と全然同一形式なることに於て推古期飛鳥時代に属すること是なり。
古瓦については説明板のとおりで、伽藍配置は法起寺式とあるが、近年の研究では四天王寺式だと考えられている。四天王寺の創建が推古天皇元年(593)だから、秦原寺も聖徳太子存命時に建立されたと考えたいところだ。
聖徳太子四十六ヶ寺のリストは『日本書紀』に示されていない。多くは畿内の寺院が想定されているが、考古学的見地から地方のお寺もいくつか含まれるようだ。吉備国には屯倉が置かれ朝廷の支配が強まっていた。寺院建立、特に五重塔の存在は、新たな時代の幕開けのように感じられたことだろう。
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