隠岐配流の後醍醐天皇は美作から伯耆へ抜けたのだが、どのようなルートだったのだろうか。アーカイブス「後醍醐天皇の休石」で紹介したコラムによると、遷幸ルートには次の4説があるという。
①「岡山県久世から中和村を経て、鳥取県の下蚊屋に入った」
②「岡山県美甘村、新庄村を経て、四十曲峠を越え鳥取県の板井原に入った」
③「岡山県大佐町大井野を経て、伏谷を通り四十曲峠を越え、鳥取県の板井原に入った」
④「岡山県大佐町大井野を経て、明地峠を越え鳥取県の根雨に入った」
①説によれば、一行は国道482号のルート、内海乢で中国山地を越えたのだ。現代のメインルート米子道も近くを通過する。
②説によれば、一行は国道181号のルート、四十曲峠で中国山地を越えたのだ。近世には出雲街道としてさかんに利用された。
③説によれば、一行は県道112号のルートで中国山地を越えたのだ。正確には四十曲峠を通過ぜずに伯耆に入る。
④説によれば、一行は国道180号のルート、明地峠で中国山地を越えたのだ。ちなみに現代の陰陽連絡鉄道はさらに西の谷田峠を通過する。
根拠はそれぞれの地域の伝説である。確たる証拠はないが、いずれもあり得ないルートではない。ただし、貴人がお通りになるという名誉は誰もが好むから、憶測が伝説となったケースがあるかもしれない。
新見市大佐大井野に「後醍醐天皇宮」が鎮座する。実に分かりやすい名称だ。
上記4説では④のルートに該当するだろう。少々遠回りに思えるが、天皇奪還に燃える児島高徳のような輩がいるから、メインルートを避けたかもしれないし、風説を立てて情報を攪乱したのかもしれない。もしかすると、影武者ならぬ影帝を立てたのかもしれない。
神社の少し手前に「後醍醐天皇ご飯石」がある。腰掛石はよく見かけるが、「ご飯石」とは珍しい。おそらくここで昼食休憩をされたのだろう。説明板を読んでみよう。
後醍醐天皇ご飯石
元弘の変(一三三ー)で隠岐の島に流島となった後醍醐天皇一行がその途中休息され食事をされた場所として、この地を御所原、そのとき食卓がわりに使われた岩を「ご飯石」と呼ぶようになったという。そのとき近所の老婆が差し出した「わらび」の料理をことのほか喜ばれ賞味され、そのため今でもここに生える「わらび」は「アク」がなく甘いといわれている。
後世、村人たちが天皇の遺徳をしのびこの地に宮を建てたのがこの上にある後醍醐天皇宮である。
大佐町教育委員会
貴人をもてなすと見返りの恩恵がある。弘法大師によくある伝説だ。美味しい「わらび」を与えてくださった天皇への感謝は、神様として祀っていることからもよく分かる。
ワラビはあく抜きが必須とされているが、調べてみると「あくなしワラビ」がたまに見つかる。長野県下伊那郡大鹿村には「鹿塩の七不思議」があり、その一つが「灰汁なしわらび」である。ワラビをほとんど食べないのでしたことはないが、ネットには重曹、小麦粉、灰など様々なあく抜きの方法が紹介されている。昔の人々もそれだけ苦労したのだろう。
ところが、この土地には不思議なことに、手間いらずのワラビがある。「なぜだろう?」「ここはな、そのむかし…」理由を著名人の来訪に結び付けるのは、むしろ自然なことだったのかもしれない。