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海遊館だったか、初めて水槽のトンネルを見た時には驚いた。頭上を魚が行き交うのである。いったい自分はどこにいるのか。さすが平成の御代はすごい。と思ったら、金魚を下から鑑賞した豪商は、17世紀の昔にすでにいた。驕奢ゆえに、宝永二年(1705)に闕所処分となった淀屋辰五郎である。
天井金魚のエピソードは『元正間記』という読み物に記載されている。巻之十九「淀屋古安奢の長ずる事」を読んでみよう。
夏座敷と名付て、四間四方四面に雨縁(ぬれえん)を付て、玻瓈(びいどろ)の障子を立て天井も同じびいどろにて張詰め、清水を湛へ、金魚銀魚を放したる体(てい)、天下の御涼所(おすゞみどころ)にても、是にはいかで勝るべき。
天下の御涼所も顔負けの豪華さだったという。そりゃそうだろう、元禄のアクアゲートなのだから。本日は豪商淀屋の名残りを求めて伯耆倉吉を訪ねたのでレポートする。
倉吉市新町一丁目の大蓮寺に「大坂倉吉 淀屋之塋」と示された標柱と「大坂 淀屋清兵衛」と刻まれた墓碑がある。塋は墓のことである。
淀屋は近世初期の岡本常安を初代とする豪商で、天井金魚は4代目、闕所処分は5代目のことだとされる。4代目は店の運命を予感していたのか、番頭の牧田仁右衛門に暖簾分けをしていた。やがて仁右衛門は出身地である倉吉で淀屋の再興を果たすのである。
千歯扱きを扱って成功した牧田淀屋は大坂にも再進出し、淀屋清兵衛を名乗った。標柱には次のように記されている。
倉吉を主拠として十六~十八世紀を頂点に繁栄した大坂の豪商「淀屋」の墓はこの大塔をはじめ慰霊塔は此処の奥の右方に歴代墓碑がある
奥の右方に行くと、歴代の墓碑はすぐに見つかった。
標柱には「大坂倉吉 淀屋仍世墓碑」とあり、次のように記されている。仍世(じょうせい)とは代々のことである。
江戸時代初・中期の豪商として名高く今も水都は大阪の橋閣に名残る淀屋の歴代の墓
淀屋橋は2代目が架けたという。現在の橋は国の重要文化財にして土木学会選奨土木遺産である。元祖アクアゲートに重厚なアーチ橋、大坂淀屋が残したものは大きい。さらに、倉吉淀屋にも遺産がある。
倉吉市東岩倉町に市の有形文化財の「旧牧田家住宅(主屋・付属屋)」がある。「倉吉淀屋」と呼ばれている。
主屋は宝暦十年(1760)、付属屋は天保九年(1838)の建築である。再興淀屋は大坂で5代、倉吉で8代続き、安政六年(1859)に突然両店共に店を閉じた。お取り潰しでも倒産でもなく、自主廃業だったという。
ロシアのミサイル攻撃だの北朝鮮の飛翔体だの、見上げれば様々に飛び交っている現代である。確かに淀屋の天井金魚は奇を衒ったパフォーマンスに思えるが、それができるのは平和な証拠。さすがは天下泰平の元禄だとつくづく思う。