宗教的な高揚感を得るためには、まずは無心になることが大切だ。静かに手を合わせて礼拝する。そして一心不乱に「南無妙法…」なり「南無阿弥…」なり、または「オンコロコロ…」なり、宗教的な言葉を唱えるとさらによい。大勢で一斉に勤行すれば、そこに聖なる空間が出現するだろう。言葉の力に依らず腰を据えて静かに取り組みたいなら座禅がおすすめだ。
静かに宗教的境地に入る方法もあれば、動的な方法もある。その代表が踊りだ。世界各地の宗教で信仰と踊りが分かち難く結びついているのを見るが、我が国でも「踊念仏」は教科書にも登場するからよく知られている。このブログでも本場遊行寺の踊念仏を紹介したことがある。
開祖一遍上人は各地を巡錫された。その様子は国宝「一遍上人絵伝」でよく知られ、やはり教科書で有名な「備前福岡の市」もレポートしたことがある。上人が岡山県南に位置する福岡の市を訪れたのは弘安元年(1278)のこと。それから数年後に、今度は岡山県北を巡られた。
津山市中村の新善光寺は市指定史跡の「一遍上人伝承地」である。
弘安元年の備前巡錫は福岡の市が来訪の目的ではなく、備前一宮とされていた安仁神社を参詣するためだった。では弘安八年(1285)の美作巡錫は何が目的だったのだろうか。山門前の石碑には、次のように刻まれている。
鎌倉時代の僧で時宗の開祖一遍上人が念仏を唱えながら諸国を遊行した生涯を描いた絵巻物「一遍聖絵」の第八第三段の詞書に「それを(中山神社)たちて、かなもりと申所におはしたるけるに」とある「かなもり」とは当地金森山新善光寺のことである。弘安八年(一二八五)一遍上人は伯耆国から美作国一宮中山神社を訪れ当山にも巡錫し念仏の教えを広めた。
美作一宮の中山神社から新善光寺にやって来たようだ。聖絵の詞書を詳しく読んでみよう。
美作国一宮にまうで給けるに、けがれたるものも侍らむとて、楼門の外におどりやをつくりて、おきたてまつりけり。それをたちて、かなもりと申所におはしたるけるに、彼社の一の禰宜、夢に見るやう、一遍房を今一度請ぜよ、聴聞せんとしめし給。又、御殿のうしろの山おびたゞしく鳴動しけるを、なに事ぞととへば、大明神は法性の宮におはしまつるが、御聴聞にいらせ給なりといふ、又、御殿のしたには大蛇どもかずを知らずあり、とみてさめぬ。このゆえにかさねて召請したてまつりて、このたびは非人をば門外にをき、聖、時衆等をば拝殿にいれたてまつる。時にみごくのかま、おびただしくほへて、二三町ばかりきこゆ。宮つかさ不思議の思をなして、みこをめしうらなはするに、われこの聖を供養せんとおもふ。このかまにてかゆをしてたてまつれと御託宣ありけり。すなはち粥をして供養したてまつりければ、かまやがてほへやみにけり。
一遍上人の一行が美作一宮中山神社に参詣したところ、ケガレたる者がいるということで中に入れてもらえない。そこで門の外に「踊り屋」をつくって念仏供養を行った。結縁ができるまでと、中山神社を発って「かなもり」という所に滞在していると、一宮の神官が夢でお告げを受けたと言ってきた。「一遍をもう一度呼んでまいれ。説法を聞かせてほしい。御殿のうしろの山が激しく鳴動するのは何事か問うと、大明神が法性宮から遷って聴聞に来られたのだという。また、御殿の下にはオロチが数えきれないくらいいる。」という夢だったそうだ。そういうことで、再び中山神社に招かれ、ケガレたる者を門外の小屋に待たせ、僧侶や信徒を拝殿に入れた。その時、神事に使う大釜が咆哮して二三百メートルも響いた。神官が不思議に思って巫女に占わせてみると、「私はこの上人を供養しようと思う。この釜で粥をつくって施しなさい。」という神のお告げがあった。そこで粥をつくってふるまうと、釜は咆哮をやめたのである。
中山神社の神官はかの有名な一遍上人が立ち去り、「しまった」と悔やんだのかもしれない。「大明神がお呼びです。粥を施行せよとのことです。」と慌てて準備したことだろう。門内に入れてもらえなかったケガレたる者たちだが、温かい粥にはありつけた。これも、一遍上人が「かなもり」に移ることによって生じた局面の転換である。さすがは上人、交渉術にも長けているようだ。