前方後円墳は近代考古学が生んだ名称であり、江戸時代には茶臼山、双子塚、車塚と呼ばれていた。それぞれ古墳の形状を何に見立てるかであるが、このうち車塚は牛車に見えたということらしい。牛車と言われてもおじゃる丸のイメージが湧くだけだが、どのような古墳なのか、坂道を上って行ってみよう。
岡山市中区四御神に「備前車塚古墳」がある。「湯迫(ゆば)車塚古墳」とも呼ばれる。写真上は後方部の葺石、下はくびれ部で手前が前方部である。
古墳散策というより山城探訪という感覚だ。おそらく見晴らしがよく、南側の平野部からも山中の人工物が輝くばかりに見えたことだろう。史跡指定はされていないが、発掘調査は行われており、古い説明板がその成果を語っている。
備前車塚古墳
史跡(岡山市四御神)
発掘者 理科大学 鎌田研究室 岡山大学 考古学研究室
縦穴式前方バチ型後方墳
全長四八・三M 後方部二六・五M 前方部二一・八M
全周上下二段の葺石を巡らす
後方部背後に箱式石棺あり
古墳は四世紀始めのもので吉備地方では一番古く三角縁神獣鏡など十三面(東京国立博物館蔵)が出土したので有名となった
被葬者は古事記にある「吉備上道臣之祖」大吉備津日子命とされている(岡山市史古代編)
大吉備津彦の墓は宮内庁治定の陵墓である中山茶臼山古墳である。それでも湯迫車塚の被葬者を大吉備津日子命とするのは、地元豪族「吉備上道氏」の祖と『古事記』が示しているからだろう。
この古墳には考古学上の特徴が二つある。一つは前方部がバチ型であること。かの有名な箸墓古墳はバチ型で、これと大きさは違えど相似た形の初期古墳が各地にある。かつて紹介した浦間茶臼山古墳は二分の一の相似形だし、本日紹介の備前車塚はおよそ六分の一だという。もっとも後方部と後円部とでは形が違うが、車塚の後方部を6倍に拡大して計算してみよう。26.5×6=159。箸墓の後円部は157mとも言われているから、拡大した車塚の後方部のほぼ内接円になるのである。
もう一つは卑弥呼ゆかりと言われる三角縁神獣鏡が13面も出土したことだ。同種の鏡が大量に出土したのは山背最大の椿井大塚山古墳であり、その数は32面以上。しかも双方の鏡には同じ鋳型から鋳造された同笵鏡がある。さらに、椿井大塚山は箸墓の三分の二の相似形だ。これだけの状況証拠があれば、箸墓、椿井大塚山、備前車塚の三古墳に関係がないわけがない。
そう考えると、孝霊天皇の皇子で吉備を平定した大吉備津日子命の墓と見るのも荒唐無稽ではあるまい。卑弥呼との太いパイプを持つ者が吉備の支配者として君臨していたのだろう。なんだかんだ言われた五輪はけっこうな盛り上がりだが、これもIOCのバッハ会長との太いパイプのおかげなのかもしれない。あるいは銅鏡ならぬ金メダルが、IOC→日本→選手の支配・被支配の関係を示しているのかもしれない。
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