悪さばかりするスサノオに神々は愛想を尽かし、天上界から追放してしまった。(乃共逐降去、すなはちともにやらひやりき)ちょうど長雨の時季であった。スサノオは青草を編んで蓑笠をつくり、神々に宿を借りたいと乞うた。(而乞宿於衆神、やどをもろかむたちにこふ)『日本書紀』神代上より
福山市新市町戸手の素盞嗚神社の境内に「蘇民神社」がある。素盞嗚神社は備後一宮だという。一宮としては吉備津神社のほうが有名だが、素盞嗚神社は式内社であり、日本書紀に基づく由緒があるのだ。
冒頭の『日本書紀』の注釈書として、卜部兼方『釈日本紀』(鎌倉後期)がある。数多くの古書を引用して解説しており、すでに失われた史料を含んでいるため、逸文として今も高く評価されている。
この『釈日本紀』に備後国風土記逸文が掲載されており、ここに素盞嗚神社が登場するのだ。さっそく読んでみよう。
素戔嗚尊乞宿於衆神
備後国風土記曰。疫隅国社。昔北海坐志武塔神。南海神之女子乎与波比爾出坐爾。日暮多利。彼所爾蘇民将来〔巨旦将来〕二人在支。兄蘇民将来甚貧窮。弟〔巨旦〕将来富饒。屋倉一百在支。爰仁武塔神借宿処。惜而不借。兄蘇民将来借奉留。即以粟柄為座以粟飯等饗奉留。饗奉既畢出坐後爾。経年率八柱子還来天詔久。我将来之為報答。曰汝子孫其家爾在哉止問給。蘇民将来答申久。己女子与斯婦侍止申須即詔久以茅輪令着於腰上隨詔令着。即夜爾蘇民与女人二人乎置天。皆悉許呂志保呂保志天伎。即時仁詔久。吾者速須佐能雄能神也。後世仁疫気在者。汝蘇民将来之子孫止云天。以茅輪着腰上。随詔令着。即家在人者将免止詔伎。(釈日本紀)備後国風土記に曰く。疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)、昔北海に坐しし武塔の神、南海の神の女子を与波比(よばひ)に出坐しけるに、日暮れたり。彼所に、蘇民将来、巨旦将来と、二人在りき。兄の蘇民将来は甚(い)と貧窮(まづ)しく、弟の巨旦将来は富饒(にぎ)はひて、屋も、倉も、百ばかりありき。爰に、武塔の神、宿処を借り給ふに、惜みて借さず。兄の蘇民将来は借し奉る。即れ栗柄(あはがら)もて座(みまし)と為し、栗飯等を以て饗(みあへ)たてまつる。饗奉ること畢へて、出で坐せる後に、年経て、八柱の子を率(ゐ)て還り来て、詔りたまわく、我れ将来の為めに報答(むくい)せん、汝が子孫(うみのこ)、その家にありや、と問はし給ふ。蘇民将来、答へ申さく、己れ女子とこの婦(をみな)侍らふと申す。即ち詔り玉はく、茅の輪をもて、腰の上に着けしめよと、詔り玉ふままに、着けしめき。その夜に、蘇民と、女人二人とを置きて、皆悉に、ころしほろぼしてき。その時に、詔り給はく、吾は速須佐能雄能神なり。後の世に疫気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以て腰の上に着けよ。詔のままに着けしめば、即ち家在(な)る人は免かれなむと詔り給ひき。釈日本紀
高天原から追い出されたスサノオは、神々に宿を乞うた。しかし、神々から「自業自得でこうなってんでしょ。宿を借りたいなんて、よく言えるね。」と言われ断られてしまったのである。『日本書紀』のこのエピソードへの注釈が、『釈日本紀』の引用部である。
行き暮れてしまった武塔神は、ある兄弟に宿を乞うた。金持ちの弟はケチなので貸さなかったが、貧しい兄は快く応じて、できる限りのもてなしをした。それから年を経て、帰って来た武塔神が恩返しをしたいという。「おまえ、家族は?」「妻と娘がおります。」「じゃ、目印に腰の上に茅の輪をつけておけ。いいな。」その夜、三人を除いて皆殺されてしまったという。再び現れた武塔神は「おれはスサノオだ。これから流行り病があれば、蘇民将来の子孫だと言って、茅の輪を腰の上につけておけば、病から免れるであろう。」と言った。
昔話になりそうな報恩譚である。宿乞いを断られたスサノオのエピソードが、スピンオフ作品として独立した感じだ。原文は宣命体である。他の風土記にはない文体なので、後世の偽作ではという推測もある。備後国風土記はこの逸文しか知られておらず、真相は分からない。
こうした背景をもとに、疫隅国社はここ素盞嗚神社のことだとして、蘇民神社前の石碑には、次のような説明が刻まれている。
「茅の輪くぐり」発祥の地
蘇民神社
「備後風土記」によれば、昔、素盞嗚尊がこの地を旅されている時、一夜の宿を求めて大きな屋敷を構え栄えていた、弟の巨旦将来(こたん)を訪ねたが断られた。次に兄の蘇民将来(そみん)を訪ねたところ蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し温かくもてなしました。
年を経て、蘇民将来は素盞嗚尊より疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びることができました。
この伝承が基となり、素盞嗚尊をお祀りしている神社では「茅の輪くぐりの神事」が行われるようになりました。
また、「祇園祭の由来」と題された石碑には、次のような興味深い話が記されている。祇園信仰発祥の地だというのだ。
各地に伝わる様々な伝承や資料からすると祇園信仰発祥の地はここ福山市新市町戸手に鎮座される「疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)」現在の素盞嗚神社であると考えられます。
疫隈國社より播磨国明石浦(兵庫)-播磨国廣峯神社(姫路)-北白川東光寺(京都)に至り、祇園感神院(八坂神社)へと伝播していったことは明らかです。
コロナ禍を経て、私たちは病を免れたいと願った昔の人々の気持ちが痛いほどわかる。特に流行初期には、ちょっと咳をしようものなら、寄るな触るな近付くなと警戒されたものだ。罹患者がパチンコに行っていたなど根拠のない情報が飛び交い、働いていた店が休業、消毒を余儀なくされる状況に、ウイルスよりも人の噂が怖いと思ったものだ。頼むから罹らないで。予防対策よりも祈りだった。
金が欲しい名誉が欲しいと色々な願いがあるが、やはり身体健全。健康があってこその人生である。茅の輪くぐりは全国に広まり、夏の風物詩として定着している。その発祥の地であるこの神社で、由来となった宿乞い説話を思い起こせば、拝殿に向かって自然と頭を垂れる気持ちになるのであった。