元和偃武はパクストクガワーナの始まりとして高く評価できる。特に一国一城令は戦国の終焉を告げる象徴的な法令といえよう。そもそも偃武には武装解除という意味があるそうだ。ノーベル平和賞級の意義ある出来事であった。
現代にあっても基地問題は、日本、とりわけ沖縄における最大の課題である。米軍基地という抑止力に期待する必要のない平和な環境を醸成することこそ、我が国の政権を担う者の責任であろう。
福山市新市町相方(さがた)に県指定史跡の「相方城跡」がある。府中から神辺の広範囲を見渡すことのできる好立地である。左前方に見えるのは亀寿山城のある山だ。
主郭にある石碑には「佐賀田城趾」と刻まれている。裏面に説明があるので読んでみよう。
佐賀田城は室町時代の末、有地民部小輔元盛の築城になる。
有地氏は宮氏より分かれ、代々芦品郡有地に住し姓となす。
元盛は毛利氏に属し各地に転戦し、石山合戦には将として勇名をとどろかす。
天正十七年山城禁止令により廃城となり、遺構の一部は天王社に移す。
昭和三十九年十二月
佐賀田城趾保存会
村上正名撰 棗田采雲書
城主は有地民部少輔元盛である。毛利氏の部将として石山合戦で活躍したという。織田軍を撃破した第一次木津川口海戦のことだ。本貫の地、芦品郡有地は現在、福山市芦田町上有地・下有地となっている。江戸後期の地誌『西備名区』巻五十葦田郡「相方村」の項では、次のように説明されている。
佐賀田山城
有地民部少輔元盛
当城は元盛開築して、有地鳥奥城より此に移れり。比は天正のはじめと云ふなり。
伝へ云。元盛当城にあって尼子籏下に従ふ、然るを神辺城主杉原播磨守盛重、毛利家に属し尼子を離れて毛利家に従がはん事をすゝむ、元盛是をいれず、故に当城を攻る事数度に及ぶ。或時杉原、亀寿山の麓に陣しければ(此処を軍の端と云は、毛利侯宮城を攻め給ふ時、大戦ありし処とて斯云ふ。)有地、此処に逆戦す。杉原敗して退き、後又謀って大軍、神辺より二手にわかれ向ふ躰をなす。其行粧、大竹に炬火多くつけ、二人して持之事、数百本、城上より是をみるに、先手、坊寺、近田に至れども後陣いまだ神辺を離れず、大軍りがたし。城堅固なりと云へども当るべからずと、杉原が陣へ使者を以て毛利家へ吹挙を頼みければ、杉原是を諾して、毛利侯へ達して籏下となる。
按に。有地は祖父清元より毛利侯に従ひ、一も違忤なし。杉原は忠興晩年より毛利家に従ひ、盛重も尋て従属し、軍功諸士の上に立り。有地尼子方とは里諺の誤りなるべし。若くは有地、杉原私の戦ひなど有しかはしらず、いぶかしけれ共、普く人の伝ふ事なれば、記して後考に備ふ。
或説に云。天正七年三月、浮田和泉守直家逆心によって、同苗与太郎忠家(陰徳太平記には基家とある)を備前蜂浜の城に籠めて、義昭将軍討滅すべき謀を廻らす。小早川隆景三万余騎にて是を攻む。浮田直家、羽柴秀吉四万余騎を以て対陣す。時に城中に相図して浮田直家、羽柴秀吉南北にわかれ、忠家城中より打て出、三方より小早川の陣へ押寄せ攻め戦ふ。時に小早川の陣より有地美作守元盛駈出、大将を目がけ一文字に突て入り、羽柴秀吉に鑓を合す、秀吉叶はず引退く。古志兵部少輔興忠は城主浮田与太郎忠家と鑓を合せ、鑓下に首を取て差上る。因茲秀吉、浮田両陣大にみたれければ、直家此を見て、敵は大将を目懸る軍なりと秀吉をいさめ、八幡山に引あげ、終に敗軍に及ふと云ふ。高名記。
天正年中、太閤秀吉公より諸国山城制停止によつて、各下城す。時に有地、佐賀田山をひらき、品治郡宮内に居住す。其後雲州へ所替し、吉川の手に属し船手の将となる。
尼子方であった相方城主有地元盛が、毛利方の神辺城主杉原盛重に攻められ、とりなしを頼んで毛利方に加えてもらったという。そう説明した後、有地氏は祖父の代から毛利方であり、尼子方というのは誤りであろうと指摘している。
続いて、八浜合戦での活躍が描かれる。なんと羽柴秀吉と槍を合わせ、退かせたというのだ。ホンマかいな。天正七年三月とあるが、この合戦に詳しい『備前軍記』では天正九年八月とされ、一次史料では天正十年(1582)二月の戦いである。もちろん、秀吉との槍合わせは虚構である。有地元盛には謎が多すぎる。
この石垣も謎の一つだ。中世末期の山城にしては立派すぎやしないか。もっとも、西端の尾根には山城らしい堀切も見られる。実のところは、どうなのだろう。説明板を読んでみよう。
広島県史跡 相方城跡(さがたじょうあと)
標高191mの通称「城山(じょうやま)」の山頂を中心にして、東西約1000m、南北約500mの範囲に城郭遺構が分布する大規模な山城である。
芦田川を挟んで正面に見える亀寿山城(標高139m)を本拠地として備後南部に勢力をもっていた国人領主の宮氏や、相方城より南の地域を本拠地としていた宮氏一族の有地氏などにより16世紀前半には、中世山城として整備されていた。天文21(1552)年に宮氏が滅んだ後は、有地一族が出雲国や備後国北部などに給地替えされるまで、相方城を拠点に当地を支配していた。その後は、毛利氏の直轄城となり、東方備えを目的とした近世城郭として整備され、関ヶ原の戦い(1600年)による毛利氏の撤退によって相方城は廃城となった。
東側郭群の最高所となる郭1(主郭)は、700mと広く、遺構確認の発掘調査により、郭1の西端より長辺が3.5m、短辺が2.9mの1間×2間の掘立柱建物跡が確認されたり、郭1東端直下の郭4には郭1から流れ込んだ大量の瓦が出土したことから、郭1の東端には瓦を使用した中心となる建物が存在していたと考えられる。出土した瓦は軒丸瓦・軒平瓦ともに二種類に分類され、a類の軒丸瓦は町内戸手の素盞嗚神社に使用されている軒丸瓦と同じであり、神社には相方城から移築されたと伝わる城門が保存されている。
1995年1月23日広島県史跡指定
広島県教育委員会・福山市教育委員会
主郭には天守のような建物があったのだろうか。石垣の態様や瓦葺建造物の存在から、有地氏ではなく毛利氏の直轄城となっての整備と考えたらよさそうだ。建造物の遺構も残っているという。さっそく行ってみよう。
福山市新市町戸手(とで)の素盞嗚神社に「旧相方城門」がある。
この門ならば、相方城はやはり近世城郭だったに違いない。二つの門のうち、東側(写真では上側)については説明板があるので読んでみよう。
相方城城門
当神社境内には、相方城の城門二棟と櫓一棟が伝えられている。櫓は、一九七〇年代に火災により消失した。城門二棟のうち、比較的保存状況の良い、東側の門について解説する。城門に関する史料がないので、建築年代の確定はできないが、建築様式と部材の風化状態から十六世紀末から十七世紀初と推定される。城門の形式は、三間一戸の切妻造の薬医門で、装飾の少ない簡素な意匠になる。鏡柱本柱は、城門に定型の五平柱であり、柱上に冠木を渡す。後方の控柱は角柱とし、二股の貫で本柱と繋ぐ。この城門は、高麗門が普及する以前の薬医門であることから、現存する関ケ原の戦い(一六〇〇年)以前の城門は当地の二門と島根県益田市にあるのみで、貴重である。
新市町教育委員会
新市商工会青年部
益田市の医光寺総門は、益田氏の居城七尾城の大手門だという。この県指定文化財と同等の価値が、旧相方城門にもあるのだ。毛利120万石の遺構を関ヶ原で失った旧毛利領で見ることができる。そう思えば、戦国の息吹を感じることができよう。
現在の知見では、関ヶ原敗戦による毛利氏撤退に伴い相方城は廃城となった、と考えられている。ところが、昭和39年建立の石碑では「天正十七年山城禁止令により廃城となり」とある。『日本城郭大系13広島・岡山』ではどうだろうか。
城は築城後まもなく、天正十六年(一五八八)、豊臣秀吉の「諸国山城御停止」の命により廃城となった。
天正十六年あるいは十七年に秀吉が出したという山城停止令。どうも史料による裏付けが取れない。後の関ヶ原戦後処理や一国一城令と混同されているような気がする。さすがに有地氏の時代に、あの石垣、あの城門はないだろう。城の破却を命じたのは秀吉ではなく、家康だったというのが真相かもしれない。
辺野古では、沖縄県知事が言うことを聞かないものだから国土交通相が代執行し、基地建設工事が再開された。秀吉も家康も武装解除によって平和を醸成しようとしたのに、自公政権は基地建設を推し進めている。世界一危険という普天間飛行場を返還させるため辺野古移設は唯一の解決策だと、決まり文句を繰り返し、思考停止状態に陥っている。沖縄基地御停止の命を出す英雄が現れることはないのだろうか。
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