昨年起きたクリミア大橋爆破は、「敵から遮断しなければならない物流ルートだったので、適切な措置が取られた」と、ウクライナ当局が関与を認めた。敵の移動や補給を断つこと。これは戦争の定石である。
中世日本の山城もまた同じ。物流ルートに睨みを利かすことのできる場所を選んで築城されている。本日登った山からは芦田川沿いの町並みを一望できるのだが、都市近郊で手軽にハイキング可能という以外に、いったいどのような地の利を得ていたのだろうか。
福山市新市町大字新市と府中市中須町(なかずちょう)の境に「亀寿山城」がある。
写真では新市方面の町並みが見えている。この方面に山を少し下れば石鎚神社があり、そこに城跡の説明板が設置されているので読んでみよう。
亀寿山城
(鎌倉時代末期~天文三年(一五三四年))
亀寿はもと亀地であり、近世に入って亀寿と記した。
古山陽道は御領より戸手を経てこの山麓を通り、市、三原に通じた。また神谷川沿いに北上する街道もあり、中世までこの地は備後東部の交通の要所であった。
街道に近く急峻な地は城を築くに適し、幾世代にもわたって興亡と盛衰の歴史を残した。
「元弘の変」(一三三一)では、宮内桜山城の支城として南方を防ぐ任務を果したほか、その後も備後東部の有力な城として攻防の中心にあった。
天文三年(一五三四)九月尼子勢の一翼を担って毛利方と対し、城をあとに広谷方面で戦い、(陰徳太平記、広谷合戦)落城する。
山頂一帯に砦が築かれその規模は近隣の山城を圧倒していたものと推測される。山頂部近くの現石鎚社は二の丸跡に位置し南に本丸西に三の丸と連なっていた。
新市町教育委員会
<協力>新市商工会青年部
亀地という地味な地名を「亀寿」とするだけで、一気に華やかな雰囲気になる。ここ府中盆地を古代山陽道が貫き、尾道市御調町市を経て三原市に至っていたという。国道486号のルートである。
ところが地形図をよく見ると、府中市父石町(ちいしちょう)前原のあたりは、芦田川の両岸に急峻な崖が迫り、通行に困難があったことが想像できる。このため古代山陽道はここを通過するのではなく、戸手のあたりから南方に迂回したのではないかという意見もある。
しかし父石町前原からは、瓦葺きの築地塀に囲まれた施設の跡(前原遺跡)が発見されており、芦田駅家ではないかという意見もある。古代最大の幹線道路である山陽道は何処なのか。とても興味深いテーマである。
いずれにしろ亀寿山城の山麓は、古代山陽道の本線か備後国府に向かう支線が通過していたのであり、古代以来の交通の要衝であることに変わりない。それゆえ南北朝の争いでは戦いの舞台となった。説明板では、討幕の最初の烽火となった元弘の変に言及している。
『太平記』巻第三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」「桜山自害事」で桜山四郎入道こと桜山茲俊の活躍が記されている。亀寿山城は桜山城の南方に位置しており、最前線で山陽道に睨みを利かせていたのだろう。
南北朝の対立のように見えて、実は武家方の内訌であった。足利尊氏直冬父子の対立は説明板にはないが、亀寿山城の武将が剛毅な姿勢を示した名場面として、『太平記』巻第三十八「諸国宮方蜂起事付越中軍事」に描かれている。これを典拠に福山誠之館中学校地歴研究会編『郷土誌』第二十章吉野朝廷は、次のように記述している。読んでみよう。
七、宮兼信
尊氏直義再び不和となるや、尊氏は直義を征伐するため京都を空虚にすることを恐れ、偽り吉野朝に降った。而して直義を毒殺するや又忽ちにして吉野朝に叛した。之がため直義方の直冬は却って吉野朝に降り長門に走った。正平十七年同じく吉野朝に降った山名時氏(尊氏の重臣)が、山陰山陽を従へるや、直冬は備後に来り、旧恨をはらさんと宮下野守兼信を新市なる亀寿山城に攻めた。直冬は禅僧をして兼信を説かしめ「諸国の武士大方宮方に参じてゐるのに、何故志を改めないか」と兼信は「屍を戦場に曝すとも魂は将軍(当時尊氏薨じ義詮将軍たり)方に止って怨を泉下に報ぜん」と聞かず「若し今夜にても夜討の手引をなさんと欲せば、城内を案内致すであらう」と若党をして城内を隈なく案内させた。この堂々たる態度に使者は全く色を失った。然して兼信は子息下野次郎氏信に五百余騎を授け、機先を制して直冬軍を討たしめた。直冬は立つ足もなく打負けて散々になったと。直冬、時氏共に後年吉野朝に叛し義詮に仕へた。
正平十七年とは1363年である。亀寿山城主の宮兼信は、南朝に降った足利直冬からの僧形の使者に対して、「もし今夜にでも、この城を夜討なさろうとお考えであれば、ご参考までに城内を案内して進ぜよう」と言った。実際のセリフはこうだ。
向後(きやうこう)斯(かゝ)る使をして、生て帰べしとな覚(おぼ)しそ。御分(ごぶん)誠に僧ならば、斯る不思議の事をば、よもし給はじ。唯此城の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌(かたち)を禅僧に作立られてぞ、是へはおはしたるならん。やゝ若党共、此僧連て城の有様能々(よく/\)見せて後、木戸より外へ追出し奉れ。
なかなか肝の据わった武将である。以後、亀寿山城は宮氏代々の居城として、地域支配に重要な役割を果たしたようだ。先に引用した『郷土誌』において、次に亀寿山城が登場するのは、落城時の攻防である。第二十四章群雄の興起織田豊臣二氏の統一には、『陰徳太平記』巻之九「備後国宮ノ城合戦事」をもとに、次のように記されている。
二、亀寿山落城
芦品郡新市亀寿山城は宮下野守兼信の築城にかかる、兼信は尊氏党の剛のものであったことは、既に記した。(第二十章参照)兼信の後裔宮下野入道は尼子氏に属してゐたので、毛利元就に攻められた。元就は安芸の守護であった元繁を破って安芸の大半を略し、勢に乗じ二千余騎を率ゐ、天文三年吉田城を出発し、備後にて剛の者は宮入道のみなりと来って亀寿山を包囲した。
宮下野入道善戦したが俄に病死したので、嫡子若狭守秀景幼にして後を嗣いだ。直ちに陥落するかと思はれたが、部将丹下与兵衛なる豪傑、度々討って出で毛利軍を散々に打破った。丹下わざと手負いたる真似して敵を誘ひ数度奇功を立てたが、真に手負ひたる時には味方は助けに来らず、毛利方数十人集って遂に討ち取って了った。丹下が討たれたので城兵色を失ひ、之がために宮氏は白旗を立てゝ降参した。これより備後に於ける毛利氏の勢頓に盛んとなった。
当主の宮下野入道は尼子氏に属していた。さっさと毛利方に乗り換えればよかったのだが、それは後知恵であり、天文三年(1534)当時の尼子経久の勢いに陰りを感じることはできない。下野入道の死没後には、丹下与兵衛が死んだふり作戦よろしく怪我真似で相手を油断させ大活躍。次々と敵を倒したが、本当に負傷した際に味方に危機が伝わらず、遂には討ち取られてしまう。亀寿山落城である。
古代山陽道、元弘の変、足利直冬、そして毛利元就と、日本史の重要場面で存在感を示した亀寿山城。この城を制する者は備後を制す。そんな思いで攻防が繰り広げられたのであろう。太平の世にあってはただの山に過ぎないのに。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。