江戸時代に頻発した百姓一揆。要求を貫徹するための示威行動であるから、一揆勢は御城下を目指して進軍した。その具体例はアーカイブズ「数の圧力で妥協を引き出す」でレポートした。鳥取藩元文一揆である。
岡山藩で起きた渋染一揆は人権闘争の金字塔であり、後世の人々に語り伝えるべき先人の偉業である。ところが、吉井川の八日市河原に集結した一揆の人々が目指したのは岡山ご城下ではなかった。どこへ向かったのだろうか。
瀬戸内市邑久町虫明に「伊木氏茶屋跡」がある。
伊木氏は備前岡山藩の筆頭家老、大名に並ぶ禄高を誇った。その陣屋がおかれていたのが、ここ虫明である。池田恒興や輝政に仕えた伊木忠次を初代とし、三代忠貞のとき虫明に陣屋を構えた。虫明以前は、姫路藩時代に三木城、鳥取藩時代に打吹城を居城としていた。
藩政時代、伊木家は十五代続き、特に十四代目の忠澄が知られている。藩論を勤王で主導し、戊辰戦争では備中国鎮撫に成功した。隠居後は茶の道に専念し、三猿斎と称した。渋染一揆の人々が期待したのは、この忠澄のリーダーシップであった。
当局の切り崩しに対し、何とか事態を打開したいと考えた一揆勢幹部は、次のように考えた。『岡山部落解放研究所紀要』第6号「渋染一揆関係資料集」所収『禁服訟歎難訴記』より
今爰ニて、一腰締て家を出、龍野様か姫路様かへ御縋り申、一統身分立行の、願致して然ルべし。
今ここで覚悟を決め家を出て、播磨の龍野藩(脇坂安宅)か姫路藩(酒井忠顕)かへおすがりして、我々の生活が成り立つようお願いすべきではないか。
御尤も御談なれと、逃散致し、御他領へ願達せハ御国の、御外聞にも拘ハらん。左する恐有へき哉。それよりも、当国の、邑久郡虫明様へ願出て如何哉
もっともなお話だが、逃散(ちょうさん)して他国へ願い出たのでは、備前岡山藩の外聞にもかかわるだろう。世間体を悪くする恐れがある。それよりも、我が藩の邑久郡虫明様へ願い出てはどうか。
思い当事なりし。御当国とハ云ひなから、従御公儀様七千石之御録御頂戴、当御国之御録と、都合三万七千石之御一家老伊木様へ、御縋り申願かんしん
それはよい考えだ。岡山藩の中にありながら幕府から七千石を頂戴し、藩内の禄高を合わせ三万七千石の筆頭家老、伊木様へおすがりするのが最善だ。
この「邑久郡虫明様」「伊木様」が、虫明に陣屋を構えていた伊木忠澄である。家老には他に日置氏、池田氏などがいたが、一揆勢は訴えを聞き届けてくれるであろう人物を見定めていたのだ。
一揆勢は八日市河原から虫明を目指して西へと進んだが、佐山村榎塚(備前市佐山)で伊木氏の軍勢に阻止された。この場での粘り強い交渉が行われ、一揆勢は歎願書の差出しに成功した。
その後、獄死という犠牲者を出しながらも、差別的な渋染・藍染の着用を強制されることはなかった。このことに虫明様の指示があったのかなかったのか。ただ、虫明様なら分かってくれるという期待が一揆勢にあったことは確かである。為政者を見極める目を持っていたのだ。
読んでいただき、ありがとうございます。うちも新任者研修をしたばかりです。一揆勢の主体的積極的な行動力に頭が下がる思いです。
投稿情報: 玉山 | 2023/07/01 04:22
7月25日、小野先生のお話に、ほぼ、職場全員で行くように予定しています。
タイムリーなお話でした。ありがとうございました。
投稿情報: 吉岡真二郎 | 2023/07/01 01:44