ウクライナ国境に10万のロシア兵が集結し、もはや侵攻前夜だと言われている。バイデン米大統領は強い制裁を示唆してロシアを牽制し、マクロン仏大統領とショルツ独首相はロシアと直接対話して戦争を回避しようとしている。
マクロン氏はプーチン露大統領がウクライナ情勢を悪化させないと約束したと述べ、ウクライナにはミンスク合意を嫌がらずに履行することを求めた。かつてミュンヘン会談で戦争を回避したと勘違いしたチェンバレン英首相のようにならなければよいが。あの時の協定は、チェコスロバキアの犠牲の上に成り立っていた。
ロシアがさらに3万人を増派するとの見方もある。兵器がこれほどまでに発達した現代にあっても、数が圧力であることに変わりない。だが、この圧力にウクライナは屈しないだろう。戦争回避にはロシア軍が撤退するほかない。
鳥取県八頭郡八頭町皆原(かいはら)に「東村勘右衛門碑」がある。
皆原の西側は八頭町東、勘右衛門のいた東村である。彼が顕彰されるのは、どんなことを為したからだろうか。副碑には次のように刻まれている。
勘右衛門の祖先は岡山藩主に仕えのち此の地に帰農した。幼少より才智衆にすぐれ長じて農事に精通した。いま目前にみる延々盤石の勘右衛門土手は実にその力によって完成したものである。その頃凶作つづきで農民生活は極度に窮乏し之を憂えた勘右衛門は弟武源治と共に因伯の農民数万を安長河原に集め減租救民を強訴した。時に元文四年二月。今から二百二十七年前のこと。藩は直ちに農政の改革を断行し勘右衛門兄弟を首謀者として極刑に処した。世に之を元文一揆または勘右衛門騒動という。然しこの一大義挙にあらわれた勘右衛門精神は今なお郷民の景慕してやまざる所である。
昭和四十年十一月
勘右衛門兄弟が指導した元文一揆は、因幡の百姓のみならず伯耆からの参加もある広範囲な直接行動、全藩一揆であった。その影響は因伯にとどまらず、以前の記事「搾り取ったら一揆が起きた!」でふれたように美作にも及んだ。説明板を読んでみよう。
東村勘右衛門之碑
一七三九年(元文四年)、東村勘右衛門は、藩政時代の苛政に苦しむ人々のため、鳥取藩政中、最大の事件ともいわれる百姓一揆(元文一揆)を蜂起し、翌年に一揆首謀の罪を負って処刑されました。
この一揆は、俗に「勘右衛門騒動」ともいわれ、彼を義民として称えた人々の思いが伝わってきます。
顕彰碑は昭和四〇年に地元有志が中心となり建立したもので、勘右衛門が処刑されてから二〇〇年以上経過した現在もなお、人々の間で語り継がれています。
八頭町教育委員会
一揆関係者の処罰は農民だけではなく、上野忠親など一部藩士にまで及んだ。一揆勢に同情的、あるいは何らかの関係があったためのようだ。おそらく勘右衛門には、因伯の百姓を動かし、藩士の一部に喰い込むような人脈があったのだろう。人物としても魅力があったのだ。次のようなエピソードが、もう一つの説明板に紹介されている。
「松田勘右衛門」
松田勘右衛門さんは子どもの頃からとてもりこうな人でした。勘右衛門さんが寺子屋で学ぶ友だちや先生の僧と八東川に遊びに来たときのことです。
どこからか一匹の犬がやってきました。
そこで知恵くらべに、その犬を向こう岸に渡す競争をしました。しかし誰がやっても、犬をうまく向こう岸に渡す者がいません。人々は口々にああがいい、こうがいいと言い合っていました。
それを見ていた勘右衛門さんは、走って家に帰り、むすびを二つもってきました。勘右衛門さんはまず一つのむすびを犬に食べさせました。犬がむすびを食べ終わると、もう一個のむすびを向こう岸になげました。犬はむすびが食べたくて川に入り泳いで向こう岸に渡りました。人々はすっかり関心しました。勘右衛門さんが八歳の頃の話です。
元禄から享保にかけて八東川は十数回もの大洪水となり田畑を荒しました。その度に苦しめられる人々を見た勘右衛門は藩に願い出、私財をなげうって堤防工事を完成させています。土手は巨石を使った構造や藤かずらを植えて地盤の強化をはかるなど、勘右衛門の技術者としての力量をみることができます。金崎から下流五百メートルにわたる所を今でも「勘右衛門土手」と呼んでいます。
元文三年(一七三八年)の異常気象による大凶作にも関わらず、年貢を取り立てようとする役人に対して農民たちが団結して起した一揆が「元文一揆」といわれるものです。勘右衛門は因幡の国、弟の夫源治は伯耆の国の農民の意向をまとめ藩内各地から一揆にすすむ体制をつくりました。
一揆勢は藩政と直結する富農や大庄屋などの家をうちこわしながら、因幡と伯耆あわせて五万人が鳥取城下へおしよせたといわれています。勘右衛門は一揆勢を背に藩との交渉をすすめましたが十分な回答が得られないまま藩兵に追われて残念ながら一揆は解散させられました。
一揆が解散してから勘右衛門と夫源治は捕らえられ獄門さらし首になりました。貧窮した農民救済のために、これほどの大一揆が組織されたことはこの地方では例がありません。
平成八年三月
鳥取城下に集まってきた一揆勢は古海河原(ふるみがわら)で藩役人に訴状を渡す。その数5万というから、藩当局にとっては大変な圧力となっただろう。百姓の要求の一部は認めざるをえなかったようだ。
百姓一揆巡りのバイブル、保坂智編『近世義民年表』(吉川弘文館)には、勘右衛門逮捕後の家族の消息について次のように記されている。
勘右衛門逮捕後、その妻は男女2人の子供とともに智頭郡大屋村へ逃亡し、そこに女子を残してさらに占田郡阿波村へ逃れた。その子孫は今も続いている。
占田郡は苫田郡の誤りだ。因幡から美作へと逃れたのだ。「子孫は今も続いている」という言葉に救われる思いがする。
緊迫するウクライナ情勢について米露大統領が電話で会談した。ここは思い切った妥協案で手を打ってほしかったが、「侵攻によってロシアが支払う代償は重い」「アメリカは脅威を誇張するな」と言い合って終わったようだ。米軍も3千人を増派するという。やはり数は圧力なのか。
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