遅刻すると人の信用を失いかねないが、勝負には勝てるのかもしれない。宮本武蔵の教訓である。生死を分ける闘いなのだから、手段を選ぶ必要はないのだろう。それでもやはり、いざという時にこそ遅刻はしないほうがよい。
美作市後山に「宮本武蔵 山牢跡」がある。昭和六十年一月、東粟倉村による建立である。
巌流島の決闘のずいぶん前、吉川英治『宮本武蔵』地の巻「茨」は、次のように始まる。
土も草も大地は若い女のような熱い息をしている、むしむしと顔の汗からも陽炎が立ちそうである。
さすがは国民文学作家、読ませる表現だ。この「茨」二及び「樹石問答」四、「弱い武蔵」一から引用して、説明板は次のように説明している。
武蔵ゆかりの地
日名倉の山牢跡・十国岩(東粟倉村)
「何処だ、姉上の捕まっていった先は。!その牢屋は」
「日名倉の木戸だと、村の衆はうわさしていたが。」
「日名倉!」
「そうだ、おれはこれから日名倉の木戸へ行く」
「え?・・・日名倉ですって」
「あそこの山牢には、姉上が捕まっている。姉上を助け出して行くから、お通さんとは、ここで別れよう」
日名倉の十国岩のそばに、その岩の頭が欠け落ちたようにぽつんと、一個の黒い物が坐っている。
・・・・・
じっと、腕を供んだまま、武蔵は、谷をへだてて見える日名倉の番所の屋根を睨んでいた。
幾棟かあるあの屋根下の一つには、姉のお吟が捕まっているのだと思う!
(吉川英治著『宮本武蔵』より)
関ヶ原の戦で新免伊賀守の手について宇喜多に加担した武蔵は、宮本村に帰郷の途中、播州境の木戸を破って逃げた咎により、姫路城から国境の目付に来ていた武士に追われ、村に帰っても、身を潜めていなければならなかった。武蔵を追っている武士達は、武蔵をおびき出す囮として、彼の姉のお吟を捕らえ、日名倉の牢に連れて行ったのだった。
武蔵は、沢庵に捕らえられた後、宮本村から出て行く途中、姉を助け出すため、それまで一緒だったお通と別れ、ひとり日名倉の牢を襲撃するが、姉のお吟は、既に姫路方面へ身柄を移された後であった。
そう、この山牢には、武蔵の姉お吟が捕らわれていたのだ。姉を救おうとする一途な思いが伝わってくる。山牢近くを通過する国道429号を上がれば、すぐに志引峠に至る。急峻な峠で兵庫県側には「志引峠にトンネルを!」と訴える看板が設けられている。ここまで武蔵は来たのだ。説明板のそばに、次のように記された標柱がある。
昭和の文豪吉川英治氏小説「宮本武蔵」執筆資料踏査の為、昭和十二年五月十二日来村
志引峠に立ったのは姉を追う武蔵ではなく、モチーフを得ようとする吉川氏であった。この峠に立てば「山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。」という名文(地の巻「花御堂」の冒頭)が実感できる。
姉をどのように救ったらよいのか。武蔵は悩んだ。悩みに悩んだ場面にこんな一節がある。「弱い武蔵」二より
(近づけない!)
武蔵は、腹のそこで唸った。
そして二日の間も、十国岩の下に坐りこんで、作戦を考えたが、いい智恵もなく、
(駄目だ!)
と思った。
その十国岩がこれだ。
ドラマの舞台にふさわしい巨岩だ。アニメの聖地巡礼は今やツーリズムの一形態として定着しているが、決して新しいものではない。私の若い自分なら映画のロケ地巡りに相当する。尾道三部作の舞台を訪ねて坂道を楽しんだものだ。
今回紹介した山牢跡と十国岩も武蔵の、いや吉川文学の聖地ということになろう。優れた作家は美しい風景を感嘆詞と形容詞だけで終わらせない。その風景にふさわしい人間模様を設定し、舞台効果としてしまうのである。
若き日の武蔵はこの山中を、駆けて跳んで躍った。姉思いの精悍な若者は、本当に剣の達人で、本当に人間関係を大切にする人格者だったのか。直木三十五は非名人説を主張したというし、遅刻して相手を怒らせるとは、戦術がどうのと言う以前に非礼である。そんな武蔵をヒーローたらしめたのは、やはり吉川文学と言えるかもしれない。
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