「苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)」という難しい四字熟語を分かりやすく言い換えた人が、神尾春央(かんおはるひで)という勘定奉行である。「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」こりゃひどい。
この言葉を『西域物語』で紹介した経世家の本多利明は、神尾を「不忠不貞いふべき様なし、日本に漫(あまね)る程の罪人ともいふべし」と痛烈に批判している。百姓を搾取するから間引きのような悪弊が生まれ、一揆のような騒擾が発生するのだ。
神尾が勘定奉行となったのが元文二年(1737)。その翌々年に鳥取藩、次いで美作の幕府領で一揆が勃発する。やはり、因果応報というべきか。
岡山県勝田郡奈義町滝本に、経済産業大臣の平沼赳夫が揮毫した「美作元文一揆義民慰霊碑」がある。義民の名は「藤九郎」と「与三右ヱ門」、死罪となった二人である。彼らは鳥取藩の一揆にも参加していたという。
どのような一揆だったのか。碑の裏面に詳しく記されているので読むこととしよう。
打続く暴風洪水旱害等頻発し加ふるに年貢の取立厳しく田畑家屋牛馬迄も抵当に高利で米銀を借入上納し「百姓とゴマの油は搾る程出る」とさえ言れ日々の暮しは貧困の極に達した。元文四年(一七三六)(引用者注:三九の誤り)弥生三月桃の節句もあらばこそ食に事欠き餓死に及ばんとし北野村(現奈義町滝本)藤九郎与三右衛門(共に高持百姓)は密かに談合して此の窮状を脱せんと策を講じ近藤村有志と共に相謀り飢て死すよりは近在の身上宜しく抶知方(引用者注:扶持方か)等沢山所持せる者方より米穀を借取り糊口を凌がんと遂に三月二日両人の死を決しての呼びかけに横仙十七ヶ村の貧困に喘ぐ農民達が之に応じ立上った。廻状により空俵に鎌牛の綱を所持し北野村長谷野に結集し騒動に及ぶこと前後五日間参加人一日三千を超す。不正に蓄ふ庄屋豪農悪徳商人等に対し要請なし配分す。妻子の露命を継ぐ糧とせり。史実に依れば初日三月二日米三十六俵翌三日米十七俵麦三十五石稗八斗四日米十四俵麦二十四石籾六石五日米十九石麦二十石に及び之を配分す。正に旱天に滋雨の如し。参加日毎に増し村役人達の制止の言を聞かず、遂に三月六日飛脚を以て津山城主松平侯に鎮圧方を懇請す。藩主鉄砲組等の武士二百五十余名の軍勢を派し久本村(現勝北町)宗尾坂に相対す。二千余の一揆の群衆も始めての鉄砲の威力に驚きあわて算を乱して敗退す。ここに横仙十七ヶ村を巻き込み五日間に及んだ勝田郡唯一の元文一揆の大騒動も終熄(しゅうそく)した。直に役人は科人として多数の百姓を逮捕し厳罰を以て臨み死罪二人他に五百六十余名を処分した。
元文四年十月二十三日朝六つ刻大坂町奉行稲垣淡路守役宅に於て藤九郎与三右衛門両人儀一揆発頭人に紛れ無きに付死罪仰付けらる由申渡し門外に引出す。与三右衛門申しけるは「国に残し置く親妻子達嘸(さ)ぞ嘆き悲しまんこと如何許り。我身の失れんよりまさって悲しゅうこそ覚え候」と涙しければ、藤九郎も涙ながら「此の期に及んで悔やむことあらじ。死後国元より縁りの者尋ね来り候へば最後迄で清く致せしと又国の妻子の申出候とお伝へ下され」と申しける。役人は急ぎ覚悟を定め候へと仰られければ両人共西に向って掌を合せ念仏に三辺称へ遂に刑場の露と消へゆく。(東作誌)支配者の過酷な搾取抑圧に抵抗し止むに止まれず自らの生存権を求め行動し常に発頭人を中心に秩序を保ち殺人焼討破壊等の暴挙を見ず整然たる一揆であった。
郷土の先人はかく闘ひかく斃れた。年月は凡てのものを抹消する。時の支配者の圧制に身を賭して万民の為に立ち向った義挙も泰平に慣れて語り継ぐ人も無く忘却されんとす。誠に憂慮に耐へず後世に伝承する資になさんと本碑を建立するものなり。
茲に鎮魂の誠を献げ郷土の範として其の名を刻み永遠に光芒を放つべし。英霊心易らかに鎮り末長く郷土を護り吾等を導き給ふことを。
合掌 平成十五年三月二日 一揆発端の日
この一揆は「勝北非人騒動」と呼ばれる。ここで「非人」とは身分のことではなく、「非人拵(ひにんごしらえ)」という服装である。古笠に古蓑を身に着け空の俵を用意して、「裕福な者が困窮する我々に施すのは当然ですよね」と米麦の提供を強要したのだった。自分たちの行動を服装で正当化しようとしたのだ。この点は有名な網野善彦『異形の王権』でも紹介されている。
一揆の発生した場所は津山に近いが、当時は幕府領で代官所は美作下町にあった。現地役人だけでは解決できないので津山藩に出動を要請、鉄砲を携えた藩兵がやって来た。ところが、当初は次のような様子だったという。『作陽誌』のうち「東作誌」三巻「勝北郡西豊田庄北野村東分」より
威しにから鉄砲を打たせられ候得者少も騒不申鬨の声を揚笑ひ申候夫故玉を込み人に中り不申様にうたせられ候へば…
笑われて引き下がったのでは、幕府の沽券に関わる事態だ。実弾を発射し、やっとのことで一揆勢を散らすことができた。その後に厳しい断罪が行われたのは上記のとおりである。いっぽう一揆に協力しなかった者三名には銀十枚が与えられ、中には帯刀一代限り、苗字は子孫まで名乗ってよいという特典を受けた者もいた。
一揆に加わる者もいれば、はっきりと拒絶する者もいた。百姓といえども多様な立場があったようだ。「胡麻の油と百姓は…」と神尾は見下した物言いをし、アベ政権は「百舌鳥の早贄とモリカケサクラは、時が経てば忘れてしまうものなり」とたかをくくっているとか。為政者とはそういうものなのか。
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