今年は723年(養老七年)の三世一身の法から1300年となる。人口増加による口分田不足を解決するため、田地を開墾した者には、期限付きで土地の私有を認めることにしたのだ。『続日本紀』養老七年四月十七日条には、次のように記されている。
太政官奏すらく、「頃者(このころ)百姓漸く多くして、田池窄狭(さくきょう)なり。望み請ふらくは、天下に勧め課(わりあ)て、田疇(でんちゅう)を開闢(かいびゃく)せしめん。其の新に溝池(こうち)を造り、開墾を営む者有らば、多少に限らず、給して三世に伝へしめん。若し旧の溝池を逐はば、其の一身に給せん」と。奏可す。
長屋王政権は前年に百万町歩開墾計画を打ち出していた。この実効性を高めるために、土地所有という特典を用意した。しかも、既存の用水を活用した場合には一代限りだが、自力で用水も引いた場合は三代まで認められるという巧妙な制度設計である。
これまで三世一身の法は公地公民制を崩壊に導いたと、否定的な文脈で語られることが多かった。しかし、社会主義国じゃあるまいし、インセンティブ付与によって民間の活力を引き出そうとしたことに意義を見出すべきだろう。
明治期の人口増加では必要な農業用地を確保するため、児島湾で大規模な干拓事業が実施された。これを主導したのが民間人、藤田伝三郎である。干拓地に藤田農場を開設し、近代的な農業経営により地域の発展に尽くした。本日は伝三郎の事績を顕彰することを通して、三世一身の法の意義を見直したい。
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この方は誰でしょう? 男爵だそうだ。
岡山市南区藤田の藤田神社前に「藤田翁頌徳碑」がある。本殿前に立つヒゲ男爵、藤田傳三郎の事績を顕彰した碑である。
遥か向こうに児島半島最高峰の金甲山が見える。そこまでは、ただただ広い田んぼと児島湖があり、視界を遮るものがない。この平地はかつて児島湾という海だった。遠浅の海を豊かな穀倉地帯へと変えたのが、本日の主人公、藤田傳三郎男爵である。
藤田伝三郎の事績については以前の記事「干拓地の恩人と幻の鉄道」で取り上げた。今回と同じく顕彰碑を紹介したが、昭和27年に岡南地区に建立されたもので、撰文は岡山市長である。いっぽう、ここ藤田地区の頌徳碑は昭和26年の建立で、撰文は岡山県知事である。両者はライバル関係にあるのだろうか。碑文を説明板で読んでみよう。
藤田伝三郎翁頌徳碑
わが藤田伝三郎翁は天保十二年五月十五日長州萩に生れ、幕末の頃は郷土にあって尊攘のことに奔走、明治二年大阪に出でて実業に志し、六年藤田組を興して鉄道築港鉱山開墾林業等を経営するなど大阪実業界の重鎮として盛名を博した。四十四年功によって男爵を授けられ従四位勲二等に陞叙せられ、四十五年三月三十日七十二歳をもって歿したのであるが、ここにはもっぱら児島湾開墾のことを叙して翁が不滅の偉業を偲びたいと思う。
顧りみるに明治十五年頃翁が児島湾において六〇〇〇町歩の開墾を思いたち、爾来三十二年五月十五日起工式をあげるまでの間は漁業及び治水上の見地から激しい反対を説得すると共に、各種の障害を克服するなどもっぱら事業の準備に腐心し、それ以後翁の逝去に至るまでの間は専心その成功を期し、現在の藤田開墾完成の基礎をほぼ確立せしめたのであるが、其の間は終始この事業が必ずや世を益する国家的事業であるとの不動の信念のもとに、不世出の手腕と強靭な意志と、加うるに進歩的な着想とをもって、あるいは事業の進歩に、あるいは巨額の調達に、更には大規模機械化農法の実施等に向って、不撓不屈、文字どおり言語に絶する努力を払って、拮据経営されたのであって、こんにち翁及び嫡子平太郎、嫡孫光一の三代にわたる経営により、児島湾地帯に約四〇○○町歩の土地が造成せられ、その中央部の地域をもって明治四十五年四月一日藤田村を創設し、周辺部の地域はこれを灘崎村・興除村及び岡山市に編入し、かつこれらの土地は現在数千にのぼる農家に完全に譲渡せられ、其の生業を確保し、かつては高潮荒れ狂うた蒼海も、いまは豊かに稔る穂波と化し、年々莫大な五穀を育成し、地方の開発はいうに及ばず、日本産業のうえに寄与した功績ははかり知れないものがある。まことに藤田翁の偉業は炳乎として日月と共に輝いていると言うべきである。翁逝いて四十年、恵沢に浴する幾千の父老の景慕欽仰おのずからあつまって、碑の成るにあたり、ここにいささか感恩の情を録して、無窮に伝える次第である。
昭和二十六年三月
岡山県知事 西岡広吉撰
広島文理大学教授 井上桂園書
令和三年五月 寄贈 株式会社マルシン
奈良のむかし、長屋王は百万町歩開墾計画を打ち出した。民生の安定を図ることは政府の重要な役割であり、方向性は実に正しかったが、さほどの成果は上げられなかったという。
これに対し、藤田翁の開墾計画は見事に成功し、今も岡山平野を代表する穀倉地帯として知られている。ビールの原料となる二条大麦が梅雨前の爽やかな時季に穂を揺らす風景は美しい。これも藤田翁のおかげかと思うと、夏のビールもいっそう美味く感じる。
特に機械化農法の導入は先進的で、国産農業機械の開発に大きく寄与した。石油発動機を動力としたバーチカルポンプによる揚水は、踏車とは比較にならないくらい効率的だった。
藤田組が干拓した広大な土地は藤田と名付けられ、伝三郎、平太郎、光一の藤田男爵家三代によって大規模な農地経営が行われた。自ら開いた土地を、三代にわたって所有し、意欲的に経営したのである。三世一身の法の趣旨は藤田農場で実現された、と評価してよいだろう。
藤田組は戦後に同和鉱業と社名変更し、現在はDOWAホールディングスとなっている。ホームページの企業沿革には、1899年「岡山で児島湾干拓事業に着手」と紹介されている。事業を主導したことは、今も社の誇りである。
今年も暑い夏がやってくる。熱帯原産のイネは夏に一番元気が出るらしい。春は大麦、秋は稲と豊かに稔る穂波が、かつては高潮荒れ狂うた蒼海だったとは、もはや誰も想像できないくらいだ。藤田地区の人々は感謝の気持ちを「ふじた傳三郎太鼓」という郷土芸能への昇華させている。
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