かつての土佐は遠流の地で,幾多の貴人が流されてきた。その一人,紀夏井といえば,応天門の変で排斥された名族・紀氏の有力者である。香南市野市町母代寺には紀夏井邸跡がある。
母代寺の近くには父養寺という地名もあり,どちらも夏井の親孝行に由来するらしい。『日本三代実録』巻第十三によると,事件当時,夏井は肥後の国司をしていたが,「夏井隨使出境 肥後民庶遮路悲哭」,夏井が中央からの使者に従い肥後国の境を出ようとすると,民衆が道をさえぎって嘆き悲しんだという。それ以前に国司を務めた讃岐でも,任期が終わったにもかかわらず,「百姓相率 詣闕乞留 因欺更留二年」,百姓が役所を訪れ夏井の留任を請うたため二年留まっている。
野市の里で夏井は,里人に薬草を教え土器を製造したという。地元では「往古紀ゲセヰト云フ人アリ山ノ南方カメ山ニテ米作ノ吉凶ヲ卜シテ亀ヲ焼キシ所ナリ」と口伝されてきた。「ゲセヰハ蓋シ夏井ノ呉音ナルベシ」と『土佐遺蹟志』は記す。
名国司の流人が暮らした場所は,千年以上の時を経て昭和28年に県の史跡に指定され,夏井の事績を今に伝えている。
詳しい情報をご提供いただきまして、ありがとうございます。神社の存在は何らかの史実を反映しているのでしょうね。地元の方々が伝承を大切に継承してこられたことに敬意を表したいと思います。
投稿情報: 玉山 | 2019/11/05 20:53
はじめまして。「ゲセヰ」とは芸西村と関係がありそうと思いますがどうでしょうか。芸西は「キシ」と読んだのではないでしょうか。芸西村の和食(フシ/フジ=布師)には紀姓坂本臣と、同族(武内宿禰の後裔)の布師氏が住んでいたようで、王子宮で坂本権現を祀っていたようです(現在は奈半利町にある坂本神社の論社)。坂本神社が最初に記録に現われるのが866年5月、応天門の変が866年4月ですから、偶然ではないのかもしれません。坂本臣は讃岐に多く居たようなので、紀夏井が流罪になったと聞き力になりたくて、芸西村に移って来たのではないかと私は想像しています。無視できるはずがないからです。香南市からは20km弱です。
余談ですが紀貫之は奈半郷(北川村)に居る親戚の武内家を訪れており、そこの女性との間にできた息子の子孫が紀氏として最近まで住んでおられたようです。紀貫之は866年に生まれています。紀夏井と何か縁があるのかもしれません。
投稿情報: きのこ | 2019/11/05 19:43