後醍醐天皇の一宮(いちのみや)・尊良親王は元弘の乱の失敗で土佐に流される。忠臣・秦武文(はだのたけぶん)は一宮の御息所(みやすどころ)を土佐へお連れしようと尼崎から船出しようとするが,海賊・松浦五郎に襲われる。御息所を助けようと舟に乗せたはいいが,運悪く松浦の舟で御息所はそのまま奪われてしまう。さあ,どうする?『太平記』巻十八「春宮還御事付一宮御息所事」を読んでみよう。
武文渚に帰来て、「其御舟被寄候へ。先に屋形の内に置進せつる上臈を、陸へ上進せん。」と喚りけれども、「耳にな聞入そ。」とて、順風に帆を上たれば、船は次第に隔りぬ。又手繰する海士の小船に打乗て、自櫓を推つゝ、何共して御舟に追著んとしけれ共、順風を得たる大船に、押手の小舟非可追付。遥の沖に向て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑声を聞て、「安からぬ者哉。其儀ならば只今の程に海底の竜神と成て、其舟をば遣まじき者を。」と忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける。
尼崎市寺町の善通寺に「南朝忠臣秦武文公遺趾」とされる墓碑がある。西隣にかつてあり秦武文の菩提を弔っていた海岸寺から移されたものだという。
海に沈んだだけでは忠義を尽くしたことにはならない。武文の怨念は次から次へと怪異を引き起こして海賊を懲らしめる。そして…
其次に大物の浦にて腹切て死たりし、右衛門府生秦武文、赤糸威の鎧、同毛の五枚甲の緒を縮、黄鴾毛なる馬二乗手、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が舟に向て、其舟留まれと招く様に見へて、浪の底にぞ入にける。
恐れをなした海賊は,御息所を小舟に乗せて解き放つ。やがて一宮と御息所は再会を果たすこととなる。
めでたしめでたしで面白い話ではあるが,どこまで史実を反映しているのか分からない。歴史物語はそうあってほしいという人々の願いの結晶である。この墓碑も後世の建立であろうが,物語を楽しむ上では問題なかろう。「武文蟹(たけぶんがに)」という人面の蟹がいるそうだ。秦武文の生まれ変わりということだが,ヘイケガニのことである。
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